私の昭和20年8月6日    増田 誠
  お袋が、2014(平成26)年11月24日101歳で永眠しました。
その通夜などで、お袋の話などを話しこんでいた時、お袋の被爆体験記に遺された写真などを掲載し、追記しようと思っている事などを話したのです。
その時、幼児だったとはいえ、兄さんの被爆体験は?と尋ねたのです。
被爆65年の2010(平成22)年8月6日に自身のブログ「街の風景」に書いたと聞いたのです。
4歳だったので悲惨だった状況は覚えているが、被爆時の詳しい記憶はない(思い出せない)ということでしたが、お袋の死を切っ掛けにわたしのHPでも公開するということで、この頁を編集しました。
増田 誠(ますだ まこと)
  1941(昭和16)年1月3日。広島市牛田町で父・秀人、母・シズヨの次男として生まれる。
1945(昭和20)年8月6日(月)午前8時15分被爆時も牛田町の自宅にいました。
その時:オヤジは出征中(ビルマ)で不在。お袋は、二葉の里:第二総軍司令部に出勤(勤労奉仕)。長兄は集団疎開で三次のお寺に行っており、家にはおばあさんと2人だったそうです。
お袋が遺したアルバムにあった。次男、長男とお袋が写っている写真です。→
93歳の頃から認知症の症状が出てきたお袋ですが「誠を育てるとき(食べるものが少なく)満足に育ててやれなくて悪かった」とわたし(戦後生まれの三男)によく云っていました。
幼児の時の被爆体験ですので、具体的なことは覚えていないということで、大きくなってきて、お袋の話や周りの人などの話などで肉付けされたことなどは、この体験記ではそぎ落としているのでしょう。
この頁で取り上げた兄の被爆体験は、当時の事を思い出したことをそのまま記述したのだろうと(わたしは)思っています。
その兄も、被爆70年の今(2015)年には74歳になるのです。
15.01.11訂正      15.01.04.増田 裕・記編集
              私の昭和20年8月6日
  その時、私は4歳と7ヶ月と3日でした。
爆心地から3km離れた自宅のちっちゃな防空壕で被爆しました。
4歳ですから、多くの事は覚えていません。
原爆が落ちた瞬間は、ちっちゃな防空壕の入口にいたそうです。
警戒警報が解除になり、防空壕に一緒に逃げ込んでいたお祖母さんに、
壕のそばのイチジクを「取って」とお願いして、
お祖母さんが手を伸ばした瞬間に、
原爆が爆発し、
お祖母さんの後頭部の髪の毛が焼けました。
しかし、お祖母さんは髪の毛が焼けただけで済みました。
私はお祖母さんの影で無事でした。
私とお祖母さんは爆風で再び防空壕に転げ込んだのでしょうが、
思い出せません。
爆風が母屋を突き抜け、
縁側のガラス障子や部屋のふすまなどの建具はすっ飛び、
床の畳はすべて落ち、
天井もすべて落ち、
屋根の瓦は半分ずれ落ちて、
土壁も崩れていました。
この記憶は残っています。
他に、この日の記憶は、
真っ黒な太陽と、現在まで見た事がない真っ赤に燃える大きな大きな太陽です。
真っ黒な太陽は、
黒い雨を降らした雲の向こうの太陽だったのかもしれません。
真っ赤な大きな大きな太陽は、
広島を焼き尽くした炎が太陽を真っ赤にしたのかも知れません。
この、真っ黒な太陽と真っ赤な大きな大きな太陽は目に焼き付き、
頭の中には浮かびますが、
その色を描く事はできません。
6日の記憶はこれだけです。
その日の夜は何処に寝たのか、何を食べたのか、
後にお祖母さんから聞いていていたのに忘れてしまったのか、
全く記憶に有りません。

その後の事で忘れていない事があります。
忘れる事が出来ないのは、
歩いて5分ぐらいに所にある公園で、
市内から逃げてきた人達が力尽きて死んだ人を焼く匂いです。
大きな穴を掘り、壊れた家の木などを積んだその上に、
死体をめざしの様に並べ、積み重ねて焼いたそうです。
何日も何日も続きました。
その匂いは今でもすぐに判ります。
人を焼いている臭いだと…。
以上の事以外は、いくら思い出そうとしても、
今はもう出てきません。
語句の解説 07.04.11裕・編集
(近くの公園)公園 「歩いて5分くらいにある公園」は、牛田公園のことで、公園の一角に“牛田(原爆死没者)供養塔”が1950(昭和25)年に建立されたそうです。
  関連頁:牛田公園  
牛田供養塔  
第二総軍司令部
(爆心地から≒1800m)
1945(昭和20)年4月大本営は本土決戦体制として東日本の要として東京に第一総軍司令部、西日本の要として広島の(当時機能していなかった騎兵第五連隊内)二葉の里に第二総軍司令部の設置をきめ、大阪以西の陸軍・海軍を統括したそうです。
  関連頁:騎兵第五連隊跡



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