東京都慰霊堂 (横網町公園)
  北砂の戦災資料センターに行くという私を、妹を失いこちらの「東京空襲犠牲者名簿」に名前を残しているという義姉の話を聞いて訪れてみようと思ったのですが、その話を聞くまでは東京都慰霊堂などをわたしはまったく知りませんでした。
こちらは東京都の施設だったのです。
資料を見るまで昭和17(1942)年4月18日から空襲がはじまった事も、昭和20(1945)年3月10日のB29による無差別爆撃で10万にものぼる方々が犠牲になった事も、恥ずかしいことに私は知りませんでした。
見学しながら、関東大震災の教訓が阪神淡路地震に活かされていたであろうか?また第2次世界大戦の反省が今の日本に活かされているのだろうか?と・・・今後起るとされる東海沖地震の被害が最少でおさえられる施策が行われる事を、そして2度と悲惨でしかない戦争を起してはならぬ事と願いながら見学したのですが・・・今頃になってチト調べたことを追記しました。
06.07.08追記    03.01.21裕記編集

03.01.16撮影
横網町公園案内板
震災記念堂東京都慰霊堂
由来記
震災記念堂・東京都慰霊堂 震災記念堂・東京都慰霊堂
(内部)

03.01.16撮影
東京空襲犠牲者を追悼し
平和を祈念する碑
復興記念館 復興記念館 関東大震災 
朝鮮人犠牲者追悼碑

よこあみちょうこうえん
横網町公園
墨田区横網二丁目


陸軍被服廠の移転に伴って、1922(大正11)年に東京市がその跡地を陸軍省より買収し、1923(大正12)年7月から公園の造成を進めていたところ9月1日の関東大地震では、周辺の住民が空地となっていたこの被服廠跡に避難してきました、ところが折からの風速17mといわれる強風(火災旋風)によって運び込まれた家財道具などに飛び火し、瞬く間に燃え広がり3万8000人近くが焼死したそうです。
 公園内には、関東大地震による遭難死者約5万8000人の遺骨を納めるため1930(昭和5)年に慰霊記念堂が、また関東大地震の惨事{1929(昭和4)年に帝都復興展覧会が開催され、その時出品された被害品を展示したもの}を後世に伝え、東京の復興事業を記念して1931(昭和6)年に震災復興記念館が建設されました。
加えて戦後、慰霊堂には東京大空襲(昭和20年3月10日)の死者の遺骨が納められ、復興記念館にも戦災に関する展示がされるようになりました。財政難で頓挫しているようですが、東京都平和祈念館建設の候補場所であったようです。


震災記念堂
東京都慰霊堂

震災慰霊堂は、震災による遭難死者58,000人の遺骨を納めるために1930(昭和5)年に建てられ、その後、東京大空襲{1945(昭和20)年3月10日}などによる殉難者の身元不明の遺骨も併せて安置することになり、1951(昭和26)年に名称を東京都慰霊堂と改めました。
※1944(昭和19)年、1945(昭和20)年の東京空襲での犠牲者はこの公園をはじめ130ヶ所に仮埋葬され、戦後1948(昭和23)年から逐次改葬火葬され、納骨堂を拡張して遺骨が奉安されたそうです。

復興記念館

震災の惨禍の記録を後世に伝え、また焦土を復興させた当時の大事業を記念するために、1931(昭和6)年に開設されました。
関東大震災の惨事とその復興計画事業を写真やパネルで展示。また地震・火災に関する資料や太平洋戦争の際の都内の戦災写真や遺留品なども展示している。

東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑

1942(昭和17)年4月18日の初空襲から1945(昭和20)年8月15日の敗戦まで空襲で亡くなった方々の名前を記録した「東京空襲犠牲者名簿」がこの碑の中に納められています。
“記憶の場所”と作品名がつけたこの碑の斜面を覆う花は生命を象徴しているそうです。
作者:彫刻家・土屋公雄氏  2001(平成13)年3月建立東京都に寄贈されました。

関東大震災 
朝鮮人犠牲者追悼碑

1923(大正12)年9月1日地震発生の翌2日ごろから、朝鮮人が暴動を起こし放火しているという流言蜚語が非常な勢いで拡大し、町々には自警団が組織され、朝鮮人(や朝鮮人に誤られた日本人)多数が殺害されました、その方々への追悼碑。




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