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広島ゆかりの人たちの事を調べているときにふと立ち止まることがあるのです。
つまりわたしが知らないことではあるのですが、関心・興味を持った事項が出てくることがあるのです。辞書でわかることであれば辞書を引けばいいのですがそうでないものもあるのです。
ここではそういう事項ですがわからぬまま時過ぎていたときに偶然にその関連の資料に出会うことがあるのです、極わずかですがそういう資料を掲載できればというのがこの頁です。 |
13.11.11.更新 04.09.26裕・記編集 |
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敬称は略しました |
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千田貞暁:宇品港築港関係資料 |
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※1 |
1880(明治13)年4月6日藤井県令病気で依頼免で千田貞暁発令、4月27日広島着任 |
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※2 |
1884(明治17)年2月
広島県が87,108円391を示し人造石考案者である服部長七と工事の請負を決定した。 |
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※3 |
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23,047.530 |
深澪埋築費 |
3,808.800 |
深澪鎖堤假堰費 |
49,040.559 |
新開築調費 |
3,730.374 |
工場築調費 |
72,448.417 |
宅地築調費 |
27,539.793 |
道路橋梁費 |
37,916.689 |
桟橋及海岸道路 雁木築調費 |
17,432.238 |
樋門及堤防増築費 |
30,307.740 |
被害修繕費 |
24,772.367 |
借入金利息外 |
10,098.231 |
委託金外 |
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31,626.397 |
寄附金 |
49,945.994 |
授産金 |
3,808.800 |
広島区費 |
59,365.000 |
国庫補助金 |
114,521.266 |
宅地売却費 |
35,000.000 |
桟橋売却費 |
10,31/.553 |
工事委託金外 |
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1886(明治19)年9月17日暴風により築港工事大破する。
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※4 |
築港工事完了後発表された『宇品築港工費清算書』(上記表)で見るとわかるように築港工事としては赤字ではなく黒字であったので築港工事の赤字工事に対する左遷ではなかったと思いますが、。
千田知事が築港工事不足金として第2回国庫補助申請をした35,603円(補助金は許可されたが)に対し、『国庫補助を仰ぐ築港計画は粗漏なりとして罰棒・年棒十二分の一を科せられた』ことによるのではないのでしょうか。 |
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関連頁:(広島ゆかりの人)千田貞暁 (千田廟公園内の)千田廟社、千田貞暁・銅像 |
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宇品築港物語 竹島浅吉氏著 平成7年溪水社発行を参考にしました |
03.07.29裕追記 |
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松田重次郎:(現)マツダ関係資料 |
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1920 |
大正9年1月 |
東洋コルク工業株式会社創立 |
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* |
広島で明治時代からコルク壜栓事業を営んでいた清谷商店を、第一次世界大戦後の不況から救済するため海塚新八注1(初代社長)が中心になり会社組織に改編、東洋コルク工業として新しく設立しました。 |
* |
松田重次郎は、この時取締役に就任しています。 |
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1921 |
大正10年3月 |
松田重次郎社長就任 |
1927 |
昭和2年9月 |
東洋工業株式会社に改称 |
1929 |
昭和4年9月 |
工作機械の製作開始 |
1930 |
昭和5年9月 |
広島県安芸郡府中町に新工場建設 |
1931 |
昭和6年10月 |
三輪トラック「マツダ号」の生産開始 |
1938 |
昭和13年1月 |
「軍需工業動員法」により陸海軍共同管理工場となる |
1984 |
昭和59年5月 |
マツダ株式会社へ社名変更 |
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関連頁:(広島ゆかりの人)松田重次郎 |
注1 |
(初代の)海塚新八(1847-1913)の後を、長男が継いで二代目・新八を襲名したそうで、東洋コルク工業の初代社長は、二代目新八の事になります。 |
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関連頁:(本逕寺の)海塚翁碑 |
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広島の大火 |
まだ調べきってはいませんので参考にしかなりません・・・・・05.05.18裕記編集 |
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※ |
午後4時ごろ白神組五丁目(現・大手町3丁目)から出火し、折からの烈風で煽られ火の手は、尾道町(現・大手町2丁目)、塩谷町(同)、革屋町(現・本通)、紙屋町、猿楽町(現・大手町1丁目)袋町、西魚屋町(同)、鉄砲屋町(同)、平田屋町(本通)、立町、研屋町(現・紙屋町)、播磨屋町(現・本通)、車屋町(現・紙屋町)、、東魚屋町(現・立町)を焼き払い、城内の一部をも焦がし、八丁堀、鉄砲町、上流川町(現・幟町)、幟町などを燃やし、猛烈な火勢はさらに東白島町、白島九軒町から神田川(現・京橋川)対岸の牛田村(現・牛田町)にまで広がりました。このとき縮景園も火魔に襲われ建物の多くが焼失したそうです。 |
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※資料は広島県教育委員会発行「縮景園史」を参考にしました。 08.04.14追記 |
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1945 |
昭和20年 |
8月6日 |
原爆による惨禍があまりにも強烈で多くの方々が直接的に亡くなりましたが、
原爆炸裂時の高温の熱線により市内中心部の家屋が自然発火、火災が起り終日空を焦がし、多くの方々が(火災によっても)亡くなりました。 |
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参考頁: |
おじさんの「原爆記」 |
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知新集(ちしんしゅう) |
資料は広島県教育委員会の資料などを参考にしました |
「知新集」は、江戸時代末期の広島町奉行管内(町組と新開組、すなわち旧広島市域)の有様を記録した地誌集です。1825(文政8)年完成した広島藩地誌「芸藩通志」の資料とするため「国郡志書出し帳」という地誌が各町村から提出されましたが、広島府のものを特に「知新集」といい、命名は編集にあたった町方付歩行・飯田篤老(とくろう:利矩:1778-1826)が、同書の中に含まれる寺院由来「知新集」の名をとったものです。
編集は1814(文化11)年に「国郡志御用係」に西町奉行菅求馬、町役人の山県屋、安田屋らが任ぜられたことにはじまり、1819(文政2)年藩士で文人の飯田篤老が主任として加わり本格化し1822(文政5)年に整理編集されたものです。
全25巻で、
第1巻には国名・群名・風俗など総本を記し、
第2巻から第8巻までは広島五組及び新開について町村別に詳説しています。
第9巻から第24巻は寺社別の位置・沿革、
第25巻は広島城のことを記しています。
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実物は、1966(昭和41)4月28日広島県重要文化財に指定されています。和装本袋とじ、楮紙(こうぞがみ):縦26.4cm×横20.0cmで広島大学(所在地:東広島市鏡山)蔵ですが非公開です。
しかし、「新修広島市史」の第六巻「資料編その一」に全巻収録されていますので其れを参考すればわかります、なお広島市図書館(や、わが区安芸区図書館でも閲覧依頼すれば)で閲覧はできますが(現在:持禁で)貸出していませんので、図書館内での閲覧になります。 |
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関連頁:飯田篤老のお墓 |
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08.12.30裕・編集 |
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芸藩通志(げいはんつうし) |
資料は広島県大百科事典を参考にしました |
「芸藩通志」は、広島藩の代表的な地誌です。
広島藩では1663(寛文3)年儒者・黒川道祐(?-1689)が編纂した「芸備国郡志」2巻の改訂、増補を期した修史事業19世紀初頭からはじめました。
1818(文政元)年には広島城下に編集局を開き、頼惟柔(杏坪:1756-1834)、加藤棕廬(1790-1851)、頼舜壽、黒川方楙、津村聖山、吉田吉甫、正岡元翼らが参画しました。
また、芸備16郡の各町村に国郡志御用係を任命し、一定様式による地誌の書出しや古文書。旧記類の提出を命じ、1819(文政2)〜1820(文政3)年にかけて「国郡志御用ニ付下調書出帳」を提出させ、1825(文政8)年に全159巻159冊が完成しました。
「芸藩通志」と名付けたのは頼杏坪の序によると備後国では広島藩に属する郡村のみを扱っているためとしています。
内容は、序につづき編修の由来、次第を記し、安芸と備後を分けてそれぞれの国名考、彊域形成、国府、路程駅郵考、郡邑建置沿革考などなどをあげています。広島、三原、厳島、尾道を別記して、安芸国8郡、備後8郡ごとに、郡・村図、地勢、山川などを詳記し、巻末に古文書、芸文、古器物を挙げています。
「芸藩通志」は、広島中央図書館出版で1915(大正4)年翻刻されています。
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※ |
1825(文政8)年、時の殿様は 浅野斉賢(1773-1830:浅野第10代1799-1830) |
※ |
1868年=明治元年という年代背景もあります |
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関連頁:頼杏坪の墓 加藤缶楽の墓(編集に参画した加藤棕廬は玄孫にあたる) |
08.12.30裕・編集 |
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芸轍(げいてつ) 芸州轍、芸州派ともいう |
資料は広島県大百科事典を参考にしました |
江戸中期から明治初期にかけて名だたる学僧を輩出した芸州(広島県)の浄土真宗学派の名称です。
派の祖は寺町の(無障山)報専坊住職・慧雲(えうん:1730-1782)ですので、謂わば慧雲の学系に属する者の総称でもあります。
慧雲は寺内に私塾「甘露社」を開き多くの学僧を養成しました。その中でも、浄土真宗本願寺派最大の宗義騒動「三業惑乱」の時、在野側の旗手として活躍、当時宗学の中央に当る京都学林側能化の智洞(ちどう:1736-1805)の「三業帰命説(きみょうせつ)」を退けた大瀛(だいえい:1759-1804)は特に有名です。
この騒動を機に宗学は細密化し、芸轍内部でもさまざまな学系に分流しました。
大瀛のいとこで芸轍重鎮の僧叡とその門下生の流れを「石泉学派」。
大瀛の高弟・曇龍とその門下生の流れを「龍華学派」。
いずれもが信心後の行(ぎょう)を重視する学派で、行を度外視する立場の大瀛の学説とは趣を異にしたことで、この両派を芸轍とは別視する解釈もあり、その解釈からすると、芸轍は大瀛を派祖とする「せい*園学派」につながる者という見方をされます。 |
行を度外視する立場の大瀛の学派では、道命、道振、普厳らが名高いが、道振を除けば総じて現実的信仰味の解説に欠け、学説の発展をみるに至りませんでした。
むしろ、「石泉学派」、「龍華学派」の方が一大勢力を築きましたが、その後、中央の学説が宗教的哲学の深みをもつ「空華轍」に統一されるにつれ、次第に影を潜め単に研究対象として残っているにすぎないと云われています。
当時の宗学研鑽ブームの背景には江戸幕府の文治政策があったといわれています。 |
*『くさ冠に仍』という字ですが、PCでは?になりますので平仮名で書きました。 |
※ |
「三業惑乱」を考える時、
大瀛和上が云われた『極楽の道はひとすじ 南無阿弥陀仏 思案工夫のわき道をすな』の言葉が和上を支え、三業安心という主張を退ける事が出来たのだろうと(わたしは)思っています。 |
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てつ
轍 |
1.ワダチ。車輪が過ぎたあとのくぼみ。2.あと。
例文:轍を踏む 〔転倒した前の車のわだちの跡をふむ意から〕前の人の失敗を繰り返すたとえ。 |
たりきほんがん
他力本願 |
〔仏〕 阿弥陀仏が衆生を救済する本願の力に頼って成仏すること。
浄土真宗で「他力」とは、「他」とは阿弥陀仏を指し、「力」とは如来の本願力(はたらき)をいう。 |
いっしんきみょう
一心帰命 |
疑うことなく仏に帰依(きえ)すること。 |
さんごうわくらん
三業惑乱 |
江戸時代、浄土真宗本願寺派に起こった教義理解をめぐる紛争。
学林の学僧を中心に、身口意の三業をあげて帰仏の儀式を行うことが必要であるとする三業帰命の学説が広がったが、それを異端とする主張が生じて対立した。宗派内では解決できず、1806年幕府の裁断で三業帰命は異端説と定められた。 |
ぎょう
行 |
2)〔仏〕(ア)五蘊(ごうん)の一。初めは心の意志的働きをさしたが、のちには存在物一般をさす。
(イ)十二因縁の一。あらゆるおこないのこと。現世の結果を生む原因となった過去世のおこない。
(3)〔仏〕宗教上の実践。悟りを開くための修行行法。
4)〔仏〕進みゆくこと。歩くこと。行住坐臥(ぎようじゆうざが)の四威儀の行。 |
くうげ
空華 |
〔仏〕〔目を病む人が空中にありもしない花を見ることから〕迷える人が実体のないものを実体と見ることのたとえにいう。 |
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関連頁:(報専坊)深諦院慧雲師之碑 眞實院大瀛之塔 広寂寺 蓮教寺 真宗学寮 |
11.02.03追記 10.09.07裕・編集 |
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阿曾沼(あそぬま)氏 |
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安芸国世能荘の地頭。藤原姓足利氏の一流で足利有綱(?-1186)の三男広綱が祖。下野国(栃木県)阿曾沼郷出身。
広綱の子親綱が承久の変の功で世能荘の地頭職に任ぜられた。
鎌倉時代は家臣野村氏が代官として同荘支配にあたっていたが南北朝時代(1336-1392)に入って一族の一部が安芸国に移り足利方として活躍している。
室町時代(1336?1573)には大内氏と結び、弘秀?の代には東西条に計370貫の所領をもち、開田荘代官職も得ていた。
戦国時代(1467?1590)阿曽沼氏の勢力は海田、船越に及び鳥籠(とこの)山城を本城、日浦山城を属城としていた。
1523(大永3)年尼子方に寝返ったため、1527(大永7)年大内軍武将陶興房(のち晴賢:1521-1555)、毛利元就(1497-1571)らの大軍に本拠・鳥籠城を囲まれたが家臣野村木工允(もくのじょう)が切腹して許された。
陶晴賢(すえはるかた)が大内義隆(1507-1551を倒したあとしばらく陶方として行動していたが1553(天文22)年ごろ一時陶・毛利方を離れた。しかし厳島合戦までに毛利氏に帰順しそののち約4800石を領する有力国衆として重きをなした。
慶長の役※には元秀が参陣し朝鮮で死んだ。元秀の子元郷のとき毛利氏に従って萩に移る。 |
関連頁:(阿曽沼氏居城)鳥籠山城跡 |
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厳島の戦い(いつくしまのたたかい) |
1555年(天文24)年10月1日、主君大内義隆を殺して領国を奪った陶晴賢を毛利元就が厳島に敗死させた戦い。
毛利氏発展の基となる。 |
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文禄・慶長の役 |
1592(文禄元)年4月の釜山浦上陸をもって開始された豊臣政権による朝鮮侵略戦争。日本軍は緒戦で朝鮮正規軍を破ったが、朝鮮民衆の義兵闘争や明の救援軍の反撃にあい、翌(1593)年、明との間に停戦協定が締結された。しかし、それは日明両国間の和平条件の齟齬(そご)のために破れ、1597(慶長2)年再開された戦闘は、翌(1598)年8月の秀吉の死に至るまで続いた。
この侵略は朝鮮の国土・民衆に甚大な被害を与えたのみならず、過酷な軍役・徴発によって豊臣政権の基盤もまた動揺する結果となった。
朝鮮側では壬辰(じんしん)・丁酉(ていゆう)の倭乱と呼んでいる。明では万暦朝鮮の役と呼ばれた。 |
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広島県庁の移り変わり |
1. |
1871 |
明治4年7月14日 |
広島城本城 |
2. |
1871 |
明治4年10月12日 |
広島城「旧三の丸邸」 |
3. |
1873 |
明治6年3月20日 |
国泰寺に仮設→(火事焼失) |
4. |
1876 |
明治9年12月25日 |
寺町仏護寺に仮設 |
5. |
1878 |
明治11年4月15日 |
水主町に県庁新築移転
→(1945年8月6日被爆焼失。多聞院に臨時県防空本部開設) |
6. |
1945 |
昭和20年8月7日 |
下柳町東警察署に移転 |
7. |
1945 |
昭和20年8月20日 |
府中町東洋工業講堂 |
8. |
1946 |
昭和21年6月20日 |
霞町旧陸軍兵器補給廠 |
9. |
1956 |
昭和31年4月19日 |
基町に現庁舎落成 |
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09.11.07編集 |
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明治時代の県令・県知事 |
全国府県の長官は、(現在のような民選ではなく)中央政府によって任命される官選でした。
広島県では、1871(明治4) 年8 月に高知県士族河野敏鎌が大参事に任命されたのを初めとして、明治前期には伊達宗興(参事、権令)、藤井勉三(権令、県令)、千田貞暁(県令、県知事)らが着任しました。
その呼称は、1871(明治4) 年11 月県治条例で県令又は権令とすることになり、政府における官等が四等官のものを県令、五等官のものを権令といいます。
藤井勉三の場合、権令として広島県長官に赴任してきましたが、在職中、県令に昇格しています。
1886(明治19) 年地方官官制の改革で、その呼称は知事と改められました。広島県では、千田貞暁の時でした。 |
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09.11.07編集 |
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2013年県知事選挙 |
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広島県知事選挙 2013年11月10日投票(2013年10月24日告示) |
有権者数:2,299,697人 投票者数:,727,457人 (投票率:31.97%)
湯崎 英彦 |
無 |
646,316 |
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自民党、公明党、民主党 推薦 |
大西 理 |
無 |
81,141 |
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共産党 推薦 |
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*広島県知事選・過去3番目の低投票率についてブログで取り上げました。 |
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13.11.11.編集 |
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浜井信三市長選挙関連資料 |
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※1(昭和22年4月5日新地方制度に基づき)市長選 |
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投票総数60,3270票 有効投票59,629票
山本 久雄 |
無 |
18,808 |
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第1助役・元市議会議長 |
浜井 信三 |
無 |
17,714 |
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第2助役・元市配給課長 |
中邑 元 |
無 |
9,240 |
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仁都栗 司 |
無 |
6,396 |
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川本 泉 |
無 |
6,317 |
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加藤 繁信 |
無 |
2,255 |
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この時の法定得票数は22,360票であった。
決選投票が決定したが得票第1位の山本が4月9日辞退し、浜井の無投票当選が確定した。
※のち昭和22年5月25日の衆院選挙に立候補した山本久雄は当選した。 |
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※2昭和26年4月23日市長選 |
浜井 信三 |
70,665 |
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社会党・民主党推薦 |
藤田 栄 |
65,209 |
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自由党推薦 |
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関連頁:(広島ゆかりの人)浜井信三 (広島平和記念資料館)濱井信三像 |
敬称は略しました |
資料は広島市議会史を参考にしました |
04.10.29裕追記 |
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2011年市長選挙 |
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広島市長選挙 2011年4月10日投票 |
有権者数:923,156人 投票者数:453,091人 (投票率:49.08%)
松井一実 |
無 |
165,481 |
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自民、公明推薦 |
豊田麻子 |
無 |
117,538 |
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民主支援 |
大原邦夫 |
無 |
90,464 |
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|
桑田恭子 |
無 |
37,986 |
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大西理 |
共 |
20,084 |
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前島修 |
無 |
11,732 |
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11.04.12編集 |
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