解体された(被爆建物)現在三戸商店倉庫
〔被爆当時名称〕日本特殊グリース倉庫

  南区大洲にあった被爆建物(現在)三戸商店倉庫でしたが、2014年解体され消滅しました。 
今(2014)年1月31日「どうする被爆建物」という番組がNHK・総合でありましたので、見ていたら、ここで取り上げた、現在三戸商店の倉庫(被爆当時・日本特殊グリース倉庫)が計画道路上に位置することから解体される事になり、2月中には解体されると云うことを番組の中で云っていましたので、2月20日に上東雲の方向から、仮設(歩道橋の)東大橋を渡って大洲1丁目の三戸商店の倉庫をみに行って撮影したのです。
昨日(2月28日)NHKローカルニュースをみていた時、この三戸商店倉庫が重機で解体されていることを映像で流していました、規模的に一日で(残材処分は別にしても)解体されるでしょうから、2月28日にこの被爆した建物は消滅したことでしょう。
1913(大正2)年三戸伝吉らによって創業された常磐グリース製造所の所長宅の蔵として建てられたもので、1945(昭和20)年8月6日この建物は原爆によって屋根瓦が飛び散ったが火災は発生しなかった、しかし工場で働いていた20〜30人の多数が負傷したそうです。
工場にはヤシ油や松根油などが残っていて戦後これを元に石鹸やワックスが作られたそうです。
被爆した当時日本特殊グリース倉庫(現在:三戸商店倉庫)レンガ造2階建、1913(大正2)年ころ竣工
爆心地から≒2,940m   被爆当時町名は大洲町だったそうです
2007年にこの(被爆した建物)日本特殊グリース倉庫をみて頁を編集していました。
今(2014年)回見に行った時は既にガソリンスタンド部分は解体されておりました。
家人が居られましたので撮影させて下さいと声を掛けて敷地内から撮影させてもらいました。
爆心地方向の梁間面(南西面)は今回も現在の家屋に隠れ撮影できませんでしたが、桁行き面(の東面)は建屋が解体されており撮影出来ました。
現存する被爆建物の何をどういう方法でこれからも残し(遺し)、平和学習などにどう活用していくのか、広島市としての基本方針を確立しなくては、道路計画内にあり民間の建屋なのだから解体やもなしとする今回のこの現在三戸商店倉庫が消滅した例を出すまでもなく被爆建物は一つ一消えていくことでしょう。原爆ドームだけ保存して行けばいいのだと云うことでは決してないとわたしは思うのです。
たとえば、この倉庫も被爆建物なのだから広島市として遺すと決めれば、道路計画にかかろうとも、シュモーハウスのよう曳き家して遺すことは出来たでしょうし、持ち主の三戸さんがTVの中でインタビューに答えられている処を察すれば、広島市が遺すことを決定しどういう風に利用して行くのか示せば、建屋保存に協力されたのではと思えてなりませんでした。
14.03.01.裕・記編集

14.02.20.撮影
      広島市南区大洲1-9-35   現在:三戸商店倉庫 

14.02.20.撮影

14.02.20.撮影

14.02.20.撮影

14.02.20.撮影
2007年の時は建屋があってあって見られなかった東面

14.02.20.撮影
(扉が開いていましたので中をみました)倉庫の中にはまだ物がありました

14.02.20.撮影
(マップファンの地図に)計画道路の線を入れてみました。  ≒撮影方向を矢印で示してみました



被爆した建物・構築物」編



広島ぶらり散歩へ
(被爆建物)日本特殊グリース倉庫
解体された(旧称)日本特殊グリース倉庫


inserted by FC2 system