(説明板)懐かしの一軒茶屋

  中区舟入川口町の(通称)一軒茶屋跡公園に設置されている「懐かしの一軒茶屋」(説明板)を取り上げました。
       懐かしの一軒茶屋
15世紀ごろ、このあたり一帯は沖合に江波島を望む海の中でした。
その後干拓がすすみ、船入新開(1600年頃)・船入沖新開(1700年頃)が築成され、明治のはじめ(1870年頃)に江波島と陸続きになりました。
今から250年前頃に、この付近の本川川土手に一軒の茶屋がが出来たと云われています。
なぜ、野中に、このような茶屋があったかについては、諸説がありますが、
一説に広島の城下町では、遊芸飲食が禁止されていたため、これが許されていた江波の料亭への行き帰りにこの茶屋で一休みしていたと云われています。
昭和になり30年代までは、バス停「一軒茶屋」で親しまれていました。
また、川下には渡し舟があり対岸の吉島までの唯一の足でした。
茶屋の東角には、民話「おさん狐」の小さな祠も存在し、藤棚の下に縁台が置かれ、カキ氷・お菓子・たばこなどを売っていました。
町名の変遷: 明治・大正期は、船入拾壱の割り
昭和8(1933)年から舟入川口町
昭和43(1968)年から舟入南一丁目
(2020年7月設置)国土交通省 太田川河川事務所
藤棚は今もあると聞いていましたが、わたしにはよくわかりませんでした。
江波山・皿山・丸子山は、もともと江波島と呼ばれる島でした。
文政年間(1818-1830)には埠頭も築かれ広島城下の外港の役割を果たしていました。
舟入新開(開発年代不詳)
舟入沖新開〔延宝7(1679)年〕開発。のち江波新開と改称。現在の舟入3・4丁目付近まで広がる。
丸子新開(江波島北岸から北・舟入沖新開に向かって)が文化8(1811)年に拓かれました。
丸子新開と江波新開との間は水路を残すのみとなり、水路には丸子橋という橋が架けられました。
その後、水路は明治時代初頭に埋め立てられ、島は完全に陸続きとなりました。
2020年-250年前=1770(明和7)年は、浅野藩7代重晟
2022年6月になって一軒茶屋があった舟入に過って住んでおられた方から一軒茶屋の由来について知らないかと尋ねられましたが、わたしは知らなかったのです。
何かヒントになるものがあるかもしれないとNETマップで位置を確認して訪ねました。
公園土手上のベンチの根際にここで取り上げた“懐かしの一軒茶屋”という説明板で一軒茶屋のことがわかりましたので、公園の頁を編集した後、この頁を編集したのです。
また、近くに被爆建物があった桐原容器工業所、被爆した建物は2013年に解体され被爆レンガ壁モニュメントが造られていることを新聞報道で知っていましたのでついでに訪ね撮影したのです。
過っての一軒茶屋の位置を教わり付近図を訂正しました。
22.07.04.更新  22.07.03.裕・記編集

22.06.23.撮影
広島市中区舟入川口町21-11川土手に上がる

22.06.23.撮影
説明板が設置されています

22.06.23.撮影
説明板の〝神崎圖”を使用しています

22.06.23.撮影
中区 舟入南一丁目 6

22.06.23.撮影
真っすぐ江波へ

22.06.23.撮影
振り返って(北角が過っての一軒茶屋)



「その他」編
地域関連記念碑など



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(通称)一軒茶屋跡公園
   懐かしの一軒茶屋・説明板
(桐原容器工業所)被爆レンガ壁のモニュメント


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