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おおきあつお
大木惇夫
1895-1977 |
詩人。広島市天満町の呉服商家に生れる。広島商業卒。本名;軍一。筆名:篤夫のちに惇夫。
銀行に勤め約3年後に上京、博文館に勤務。夜間正則英語学校やアテネ・フランセで学ぶ。1921(大正10)年大阪朝日新聞の懸賞小説に入選、文筆で立つと決意し小田原に移住。北原白秋に師事し、1925(大正14)年第一詩集「風・光・木の葉」発表。1930(昭和5)年「危険信号」。歌謡曲の作詞に「国境の町」がある。1941(昭和13)年戦争勃発し(海軍の)宣伝班としてジャワに応召、戦争末期に健康を害し福島県浪江で療養、敗戦をむかえる。戦後、戦時中の愛国詩などにより非難を浴び、窮迫と沈黙の日が続いた。1947(昭和22)年「風の使者」。1965(昭和40)年「失意の虹」などがある。1967(昭和42)年紫綬褒章、1972(昭和47)年勲四等旭日小綬章。
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おおたようこ
大田洋子
1903-1963 |
小説家。広島県山県郡原村大字中原生まれ。進徳高女卒。本名は初子。
戦前は「女人芸術」の同人になり私小説風の恋愛小説を発表する。疎開途中に滞在していた白島九軒町の妹の家で被爆。
終戦直後に発表されたエッセイ「海底のような光」(「朝日新聞」)を皮切りに、炎に追われ、逃げ延びた原爆の悲惨な状況を「屍の街」「人間襤褸」(女流文学者賞)「半人間」などの作品を発表。原爆症発症の恐怖と闘いながら、常に原爆の使用を告発する強い姿勢をとり続けたが、1955(昭和30)年「夕凪の街と人と」を最後に晩年は原爆小説から距離を置くようになる。1963(昭和38)年取材旅行先の福島県猪苗代町で心臓麻痺により死去。
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おのえ さいしゅう
尾上柴舟
1876-1957 |
明治・大正・昭和期歌人、書家 。岡山県津山出身。東京帝大国文科卒。本名八郎。
落合直文(歌人・国文学者1861-1903)に歌を学ぶ。1902(明治35)年金子薫園(歌人1876-1951)と「叙景詩」出版、明星派に対して叙景詩運動を進めた。1905(明治38)年車前草社〉を結成。歌集、「静夜」「永日」「白き路」「空の色」「間歩集」など。書家として「平安朝時代の草仮名の研究」「歌と草仮名」などの著書。お茶水女高師(現女子大)教授など。1937(昭和12)年芸術院会員。
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かじやまとしゆき
梶山季之
1930-1975 |
(昭和戦後の)作家。京城(ソウル)生まれ(京城で学徒動員されたまま敗戦を迎え戦後両親の郷里地:広島県佐伯郡廿日市町地御前へ引揚げた)。広島高等師範学校国文科卒。
1958(昭和33)年ルポライターになり、1959年「週刊文春」創刊に際しトップ屋グループをつくる。1962(昭和37)年「黒の試走車」で文壇にデビュー、トップ屋をやめ時代感覚とサービス精神にあふれた小説を発表流行作家となる。1971(昭和46)年雑誌「噂」創刊。長編「積乱雲」未完のまま取材旅行中の香港で1975(昭和50)年5月11日没した。1962(昭和37)年「赤いダイヤ」1964年「影の凶器」などの著作等がある。
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くさのしんぺい
草野心平
1903-1988 |
詩人。福島県出身。中国広州の嶺南大中退。
在学中の1925(大正14)年詩誌「銅鑼ドラ」創刊。帰国後の1928(昭和3)年アナーキスティックな心情を蛙に託した第1詩集「第百階級☆」をだし「学校」を創刊。1935(昭和10)年「歴程」創刊に参加し戦後は主宰する。1948(昭和23)年「定本蛙」で第1回読売文学賞。1975(昭和50)年芸術院会員。1983(昭和58)年文化功労者。1985(昭和60)年文化勲章受賞。
☆「蛙はでつかい自然の讃嘆者である」等の作品がある。
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くぼた まんたろう
久保田万太郎
1889-1963 |
小説家、劇作家、俳人。東京生まれ。生家は浅草で袋物製造販売業を営む。
府立三中(現両国高校)から慶応義塾大学普通部へ転じたころから、文学を志す。慶大在学中に、『三田文学』に小説『朝顔』(1911)を発表し、また戯曲『Prologue(プロロオグ)』が雑誌『太陽』の懸賞に当選(1911)したことから、三田派の新進作家として認められ、第一作品集『浅草』(1912)を刊行。1917(大正6)年、初期の代表的小説『末枯(うらがれ)』を書き、また、『大寺(おおでら)学校』(1927)などの戯曲や、新派の演出などを手がけて劇壇にも接近。1926年以降東京中央放送局(現在のNHK)に勤め、小説『春泥』(1928)、『花冷え』(1938)などの佳作や、第一句集『道芝』(1927)を刊行し、また築地座を経て文学座の創立に加わり、新派の舞台にも脚本を提供するなど、多彩な活動を繰り広げる。戦後は日本芸術院会員となり、1957(昭和32)年文化勲章を受けた。俳句はつねに余技と称したが、独特な情緒と技巧をもつ秀句も多く、戦後、俳誌『春燈(しゅんとう)』を主宰した。
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くらた ひゃくぞう
倉田百三
1891-1943
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(大正〜昭和初期の)劇作家、評論家。広島県(庄原市)出身。旧制三次中学卒。一高中退(結核を患い)。
一高在学中に西田幾太郎(1870-1945)の影響を受ける。1917(大正6)年戯曲「出家とその弟子」により求道的な文学者として出発。1921(大正10)年評論集「愛と認識との出発」を発表当時の青年の必読書となる。1926(大正15)年「生活者」を創刊、主宰。白樺派と交流を深め社会問題に関心を寄せたが、晩年は超国家主義に傾いた。戯曲「俊寛」など。
☆純な青年時代を過ごさない人は深い老年期持つ事も出来ないのだ(「出家とその弟子」より)
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くりはらさだこ
栗原貞子
1913-2005 |
詩人。広島市可部町に生まれ。広島県立可部高女卒。
1931(昭和6)年アナーキスト栗原唯一と結婚。戦時「人間の尊厳」などの反戦詩を書く。1945(昭和20)年8月6日(月)広島市祇園町長束で被爆。1945年末夫の唯一や細田民樹らと「中国文化連盟」を結成し、1946年3月いち早く原爆の被害を特集した雑誌「中国文化」を創刊。1946年検閲による削除は受けたが、原爆の惨状を描いた詩歌集『黒い卵』を出版。罹災後の瓦礫の中で新たな生命が誕生した一夜を歌った「生ましめんかな」など多くの詩篇、また核兵器の廃絶を訴え「私は広島を証言する」「ヒロシマ・未来風景」などを刊行など幅広い活動をされている。2002年1月1日‘新世紀を平和の世紀に’のメッセージを出されました。2005(平成17)年3月6日死去。
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こんどうよしみ
近藤 芳美
1913-2006 |
歌人。本名:芽美。建築技師。旧朝鮮慶尚南道・馬山生まれ。(父の郷里)広島市鉄砲町で育つ。広島二中。旧制広島高校在学中、中村憲吉(歌人1889‐1934)に会い「アララギ」入会、土屋文明(歌人1890-1990)、に師事。東京工業大学卒。
戦時中、中国戦線に召集。1947(昭和22)年「新歌人集団」結成に参加、評論「新しき短歌の規定」発表。1948(昭和23)年歌集『早春歌』『埃吹く街』刊行、平和への希求を基底にした歴史意識で一貫した作品を発表。
1968(昭和43)年歌集「黒豹」で迢空賞、1985(昭和60)年「祈念に」で詩歌文学館賞、1990(平成2)年「営為」で現代短歌大賞、1994(平成6)年「希求」で斎藤茂吉短歌文学賞を受賞した。1951(昭和26)年歌誌「未来」創刊、編集発行人。1956(昭和31)年現代歌人協会設立。1996(平成8)年文化功労者。朝日新聞をはじめ、中國新聞の短歌欄の選者も務めた。
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さいがただよし
雑賀忠義
1894-1961 |
英文学者。和歌山県出身。京都帝大卒。被爆者。
1924(大正13)年広島高教授。1949(昭和24)年広島大教授になる。原爆死没者慰霊碑の設置が決まった1951(昭和26)年濱井信三広島市長の依頼で碑文に「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」の一文をえらび揮毫した。著作に「英詩入門」など。
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ささき ひさこ
佐々木久子1927-2008 |
編集者、評論家、随筆家。広島市出身。広島女子商業学校卒業。広島大学卒業。
1955(昭和30)年4月雑誌「酒」創刊、1997(平成9)年501号まで(42年間)編集長を務める。1966(昭和41)年梶山季之(1930-1975:小説家)、藤原弘達(1921-1999:政治評論家)、石本美由起(1924-2009:作詞家)、杉村春子(1906-1997:新劇女優)、森下洋子(1948-
:バレエダンサー)ら、広島出身者や大宅壮一(1900-1970:ジャーナリスト)、田辺茂一(1905-1981:出版事業家)らと「広島カープを優勝させる会」を結成、代表世話人。(※カープは初優勝1975年=昭和50年)。1985年、厚生省(現厚生労働省)の諮問機関「おいしい水研究会」委員に就任した。2008(平成20)年6月28日死去。
関連頁 |
(東広島市・西条:酒のモニュメント)佐々木久子パネル |
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10.02.28編集 |
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さとうはるお
佐藤春夫
1892-1964 |
詩人、小説家。和歌山県出身。慶應義塾大学中退。
生田長江、与謝野鉄幹らに師事。「スバル」「三田文学」などに詩を発表、小説「田園の憂鬱」で注目される。1921(大正10)年「殉情詩集」を刊行。また、評論随筆集「退屈読本」中国詩を訳した「車塵集」などがある。作品はほかに「都会の憂鬱」「晶子曼荼羅」など。1960(昭和35)年文化勲章受賞。
☆ あはれ 秋風よ 情ココロあらば伝えてよ
男ありて 今日の夕餉に ひとり さんまを食ひて 思いにふける と。 「秋刀魚の歌」より
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じゅがくぶんしょう
寿岳文章
1900-1992 |
(昭和時代の)英文学者、書誌学者。兵庫県出身。京都帝大卒。旧姓鈴木。妻は寿岳しづ(翻訳家、随筆家1901-1981)
関西学院大、甲南大などの教授を歴任。英詩人W.ブレイクを研究し昭和4年「ヰリヤム・ブレイク書誌」をあらわす。書誌学、和紙研究会の先駆者として知られ、1937(昭和12)年新村出(言語学者1876-1967)らと和紙研究会を結成。ダンテの「神曲」を完訳し、1977(昭和52)年讀売文学賞。著作に「書物の世界」「和紙風土記」など
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しょうだしのえ
正田篠枝
1910-1965
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歌人。広島県江田島町秋月生まれ。安芸高等女学校卒。正田誠一(1915-1974、経済学者)の姉。
10歳から広島市に住み短歌を親しんできた。杉浦翠子(歌人:1885-1960)にまなぶ。1945(昭和20)年8月6日平野町の自宅で被爆、その惨状を歌に詠み、1947(昭和22)年12月には最も早く原爆を歌にした詩集「さんげ」を私家版として秘密裏に出版した。
その後有志と共に「原水爆禁止母の会」を結成、原水爆禁止を訴えた。著書に「耳鳴り」(1962年)、「百日紅」(1966年)、童話集「ピカ子ちゃん」(1977年)などがある。
1963(昭和38)年原爆症乳がんと宣告され「南無阿弥陀仏」三十万名号の筆をとり、1965(昭和40)年に達成しましたが、同(昭和40)年6月15日原爆症で死去。
*写真は、広島中央図書館広島文学資料室展示パネルを撮影しました。 |
12.06.27追記 |
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すずきみえきち
鈴木三重吉
1882-1936
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小説家、児童文学者。1882(明治15)年広島市猿楽町83番地の1(現・広島市中区大手町2丁目1の13)に生まれた。
本川小学校、広島一中、第三高等学校を経て現・東京大学(当時・東京帝國大學)英文科在学中の1905(明治38)年病気療養のため能美島を訪れ、そこでの体験をもとに短編小説『千鳥』を書き上げた。『千鳥』は夏目漱石(1864-1916)から絶賛された。以後、山県郡加計町を舞台とした『山彦』などの秀作を発表し、漱石門下生として活躍を続けたが、1915(大正4)年にいったん筆を折ってしまう。
小説家としての行き詰まりを自覚した三重吉は、児童文学に自らの進むべき道を見いだし、1918(大正7)年には森鴎外(1862-1922)らの賛同を得て、児童雑誌『赤い鳥』を創刊。芸術的に価値のある童謡・童話を子どもたちに提供しようという画期的な運動をスタートさせた。
三重吉はもちろん、芥川龍之介(1892-1927)や有島武郎(1878-1923)、北原白秋(1885-1942)らが傑作を次々と発表。わが国の児童文学は新しい時代を迎えることになる。『赤い鳥』には児童の投稿欄も設けられ、特につづり方、児童詩の教育活動に大きな影響を与えた。
☆生きたいというのは寂寥と悪闘しようとする執着でなければならない。「小鳥の巣」
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たかはまきょし
高浜虚子
1874-1959 |
俳人、小説家。松山生まれ。(旧制)第二高等学校中退。本名・高濱清(きよし)。正岡子規に師事。
「ホトトギス」を主宰、客観写生・花鳥諷詠を主張し、俳句の普及と後輩の育成に努めた。写生文・小説もよくし、「鶏頭」「俳諧師」「柿二つ」などの創作がある。句集「五百句」など。
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たねださんとうか
種田山頭火
1882-1940
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俳人。山口県生まれ。本名、正一。早大中退。
「層雲」に参加。荻原井泉水門下。1924年(大正14年)得度し「耕畝」と名乗る。1925(大正15)年熊本市曹洞宗・報恩寺で出家得度、のち寺を出て雲水姿で西日本を中心に旅し句作を行う。1932(昭和7)念郷里山口・小郡町に「其中庵」結庵。1939(昭和14)念松山市に移住「一草庵」結庵。句集「草木塔」、日記紀行文集「愚を守る」など。
※瀬野川流域を行乞行脚したのは1933(昭和8)年9月19日〜20日、上瀬野・一貫田に一泊し俳句十六句と日記を残しています。
*写真は、防府市設置の説明板を撮影しました。 |
12.06.27追記 |
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つちやきよし
土屋清
1930-1987 |
劇作家、演出家。広島市水主町生まれ。劇団「月曜会」創立、全日本リアリズム演劇会議議長団。1963(昭和38)年峠三吉を描いた芝居「河」初演。主な作品「星を見つめて」。1987(昭和62)年11月8日癌にて死去。
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とうげさんきち
峠三吉
1917-1953 |
詩人。大阪府生まれ。幼時期に広島へ移る。1935(昭和10)年広島商業卒。広島瓦斯(株)に勤務。本名・みつよし。
在学中より詩作を始め、勤務後まもなく結核罹患。キリスト教の洗礼を受ける。1945(昭和20)年8月6日広島で原爆被爆、原爆症に苦しみながら広島で文化運動のリーダーとなり、新日本文学会に参加。共産党入党。1950(昭和25)年「われらの詩の会」を結成。1951年謄写版の『原爆詩集』を出版。1952年詩集『原子雲の下より』を編集する。1953(昭和28)年手術中に死去、享年36歳の若さだった。
「にんげんをかえせ」と叫ぶヒューマンな叙情は戦後のドキュメンタリーとしても評価が高い。没後『峠三吉全詩集――にんげんをかえせ』(1970)が出版された。
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なかむらけんきち
中村憲吉
1889-1934
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歌人。広島県双三郡(ふたみぐん)布野村(ふのそん:現・三次市布野町)に生れました。家は、祖父の代まで庄屋をつとめていましたが、父の代になって酒造業に転じ、この地方きっての素封家(そほうか)でした。
1906(明治39)年三次中学校を卒業、鹿児島第七高等学校(造士館一部甲類)に進み、1915(大正4)年東京帝国大学(法科大学経済科)を卒業し、結婚しました。翌(1916)年10月帰郷して家務につきました。1920(大正9)年4月西宮市外鉾池畔に居を定めましたが不況で就職口がありません、ようやく、1921(大正10)年11月から5年間大阪毎日新聞の経済部記者として勤務。1926(大正15)年3月家督相続を機に、4月末退社、6月家務で再び帰住。1930(昭和5)年ろく膜の病を得て、それ以来健康は回復せず、1934(昭和9)年5月5日尾道市千光寺公園の仮寓で没しました。享年46歳でした。
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はらたみき
原民喜
1905-1951 |
詩人、小説家。広島市幟町162に生まれる。広島高師附属中校、慶応義塾大学英文科卒業。
1933(昭和8)年永井貞恵(文芸評論家・佐々木 基一の姉)と見合い結婚。1936(昭和11)年ころより『三田文学』に散文詩風な短編を発表する。1944(昭和19)年9月貞恵死去。1945(昭和20)年1月末(千葉市登戸の家をたたみ)広島市の兄のもとに疎開。8月6日原爆投下時に幟町の生家で被爆、泉邸へ逃れ、広島東照宮下で野宿、そして佐伯郡八幡村に避難。この体験は『夏の花』『鎮魂歌』などの作品となる。
1946(昭和21)年4月上京、慶応大学夜間中学に(英語講師として)勤め、『三田文学』の編集に携わる。1947(昭和22)年『夏の花』を同誌に発表、世評高く、これにより第1回水上滝太郎賞を受賞。作品にはほかに『廃墟から』(1947年)、『壊滅の序曲』(1949年)、『心願の国』(1951年)、『原民喜詩集』(1951年細川書店)などがある。1951(昭和26)年3月13日夜中央線吉祥寺〜西荻窪間の鉄路で自殺(朝鮮戦争中でトルーマン大統領の原爆の使用もありうるという声明に失望してといわれています)。
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まさおかしき
正岡子規
1867-1902
(慶応3-M35) |
俳人、歌人。伊予(愛媛県松山市)出身。帝国大文科大学中退。本名、常規(つねのり)。別号、獺祭書屋主人・竹の里人など。
1892(明治25)年日本新聞社入社、紙上で俳句の革新運動を展開。1895(明治28)年日清戦争の従軍記者として清国の金州取材日本へ帰る途中、喀血して帰松、1895(明治28)年以降は病床にあり、明治30年俳誌「ホトトギス」を創刊。明治31年におこした根岸短歌会に力をそそぎ、短歌の確信と写生による新しい俳句を指導、「歌よみに与ふる書」を著して万葉調を重んじた。また写生文による文章革新を試みるなど、近代文学史上に大きな足跡を残した。著作に句集「寒山落木」歌集「竹乃里歌」、ほか「獺祭書屋俳話」「病牀六尺」「仰臥漫録」など。
☆1895(明治28)年3月、日清戦争に従軍記者として派遣される時、宇品港に立寄り4月10日出港までの20日程広島に滞在した。
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やましろともえ
山代 巴
1929-2004 |
作家。広島県芦品郡栗生村(現:府中市栗柄町)生れ。県立府中高女卒、東京女子美術専門学校(洋画師範科)1931(昭和6)年実家の破産で中退。1932(昭和7)年4月日本共産党に入党、工場労働者となる。1937(昭和12)年炭坑争議を指導した山代吉宗(1901-1945獄死)と結婚。治安維持法下で逮捕され、三次と和歌山の刑務所で服役。1945(昭和20)年8月1日病で仮釈放で実家に帰り、敗戦をむかえる、11月三原で共産党広島県委員会設立、入党。1955(昭和30)年1月〜1956年4月「荷車の歌」を『平和ふじん新聞』に連載。
関連頁 |
(三良坂コミュニティーセンター)山代巴記念室 |
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09.04.15更新 |
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やまずみ まもる
山隅 衛
1894-1960 |
歌人。広島県佐伯郡廿日市町(現:廿日市市)生れ。
1914(大正3)年天満小学校教師、2年後短歌を始める。1921(大正10)年文芸月刊雑誌「晩鐘」創刊。間茂留の名で俳句、短歌、童謡を掲載。1944(昭和19)年7月広島県国民詩歌協会設立・理事長。「晩鐘」は(休刊した時期もあったが)80年間続き、2001(平成13)年3月「合同歌集 晩鐘」を最後に終刊しました。
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やまもと やすお
山本 康夫
1902-1983 |
歌人。長崎県生まれ。尾上柴舟(さいしゅう:歌人:1876-1957)に師事。
1930(昭和5)年中國新聞入社、11月「処女林」(広島短歌会発行)創刊。1931(昭和6)年「新樹」に改題、翌(昭和7)年「真樹」に改題。戦後、広島発の学年別教育誌「ぎんのすず」にも執筆。日本歌人クラブ中国地区幹事。歌集「萱原」「生命新象」「秋光」「生命讃歌」、歌論集に「短歌の真実」「歌話との随想」など。
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