広島ゆかりの人たち  -芸術分野人物-

  原爆関連慰霊碑巡りなど『広島ぶらリ散歩』している時に出逢った、栗原貞子さんの詩「生ましめんかな」、正田篠枝さんの短歌「太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり」などなど、どういう人物がつくられたのかなとおもい略歴を調べてきたものがはじまりで、頁を編集した時に調べた人たちをまとめていこうとしているのがこの頁です。
藝術分野 民間・文化分野   政治・軍分野  建築分野 スポーツ分野  (明治以前)歴史分野
歴代広島城主 歴代広島県知事 歴代広島市長  外国人編
15.02.09.追記   04.09.26裕・記編集
藝術分野
石本美由起
井上武吉
入野忠芳
栄久庵憲司
圓鍔勝三
圓鍔元規
大木惇夫
大木茂
太田忠
大田洋子
奥田元宋
奥田小由女
尾上柴舟
柿手春三
梶山季之
加藤唐九郎
香取正彦
菊地一雄
北村西望
草野心平
久保田万太郎
倉田百三
栗原貞子
小林千古
近藤 芳美
雑賀忠義
佐々木久子
佐藤忠良
佐藤春夫
四国五郎
寿岳文章
正田篠枝
鈴木三重吉
澄川喜一
高浜虚子
種田山頭火
土屋清
峠三吉
中村憲吉
新延輝雄
原民喜
はらみちを
平山郁夫
福田繁雄
舟越保武
本郷新
正岡子規
増田勉
丸木位里
柳原義達
山代巴
山隅衛
山本康夫
横江嘉純
吉田拓郎
吉田正浪
                                           芸術分野人物・詳細
いのうえぶきち
井上武吉
1930-1997
彫刻家。奈良県出身。武蔵野美術大(現・武蔵野美大)卒。
鉄や石を素材とした環境彫刻で知られる。1979(昭和54)年「溢れるNo8」で第1回ヘンリー・ムーア大賞展優秀賞。1981(昭和56)年から「my sky hole」シリーズを連作。彫刻の森美術館や池田20世紀美術館の設計も手がけた。1991(平成3)年中原悌二郎賞。1991(平成4)年吉田五十八賞。

関連頁 (比治山公園)階段モニュメント  (本川河畔)my sky hole’85  
えくあんけんじ
栄久庵憲司
1929-2015
インダストリアルデザイナー。東京生まれ。福山誠之館中学卒業、東京芸術大学美術学部図案科卒。
(社)日本インダストリアルデザイナー協会理事長(1970−1976)。

海軍兵学校防府分校で敗戦を迎え、原爆投下2週間後僧侶だった父が受け持つ寺があった広島市に帰郷。
焼き尽くされた焦土に立った体験がもの造りの原点になったそうです。2015年2月8日洞不全症候群で死去。
関連頁 (現在中央公園設置の)(こん)    情報の螺旋 15.02.09.追記
デザイン: 広島電鉄5000形電車 GREEN MOVER   アストラムライン
えんつばかつぞう
圓鍔 勝三
1905-2003
(円鍔勝三)
彫刻家。本名勝二。広島県御調郡河内村(現:尾道市御調町)1905(明治38)年11月30日生まれ。
1921(大正10)年京都:彫刻師・石割秀光の内弟子となる。1925(大正14)年京都市立商工専修学校、関西美術院に学ぶ。1928(昭和3)年上京、日本美術学校彫刻科に学ぶ、1930(昭和5)年第11回帝展に『星陽』が初入選、1932(昭和7)年日本美術学校卒業、沢田政広に師事。1939(昭和14)年第3回文展で『初夏』特選受賞。1951(昭和26)年以来日展審査員。1965(昭和40)年日展に『旅情』を出品これで文部大臣賞、1966(昭和41)年この『旅情』で日本芸術院賞を受賞。1970(昭和45)年日本芸術院会員。木彫に明るい叙情性を盛り込み、1982(昭和57)年には文化功労者。1988(昭和63)年文化勲章を受章。1989(平成元)年広島県民名誉県民。1993(平成5)年御調町に円鍔記念館・開館。1941(昭和16)年日本美術学校講師。1950(昭和25)年多摩美術短期大学教授。1953(昭和28)年多摩美術大学教授、長く多摩美術大学で後進を指導し、名誉教授。2003(平成15)年10月31日死去

関連頁 (広島市内の)圓鍔勝三作品   (御調町の)圓鍔勝三作品
えんつば もとのり
圓鍔元規

(1937-  )
彫刻家。神奈川県出身。圓鍔勝三の長男。
関連頁 (圓鍔記念公園)  (県立生涯学習センター)希望   (中央図書館)さわやかな娘    
きくちかずお
菊地一雄
1908-1985
彫刻家。京都出身。東京帝大卒。菊地契月(日本画家:1879-1955)の長男。藤川勇造(1883-1935)に師事。
1936(昭和11)年渡仏、デスピオ(ロダンの弟子)にまなび1939 (昭和14)年帰国。昭和16年新制作派協会会員。1949(昭和24)年『青年像』で第1回毎日美術賞。1952(昭和27)〜1976(昭和51)年東京芸大教授。作品はほかに『原爆の子』『平和の群像』。著書に「ロダン」。
関連頁 (平和記念公園)原爆の子の像 、炎の碑
きたむらせいぼう
北村西望
1884ー1987
彫刻家。長崎県生まれ。1907(明治40)年京都市立美術工芸学校彫刻科を卒業、翌年第2回文展に初入選。さらに東京美術学校彫刻科に学び、1912年に卒業、1915(大正4)年第9回文展で『怒濤』が二等賞、第10回文展で『晩鐘』が特選。
1919帝展審査員1921〜1944年東京美術学校教授1925(大正14)年帝国美術院会員となり、官展系彫刻に指導的な役割を果たした1958(昭和33)年文化勲章授賞。日本彫塑会名誉会長を務める1958(昭和33)年8月8日除幕の『(長崎)平和祈念像』は有名。

関連頁 聖観世音菩薩像   飛躍   喜ぶ少女・像   躍動   平和の女神   
参考頁 (長崎平和公園)平和祈念像
さとうちゅうりょう
佐藤 忠良
(1912-  )
彫刻家。宮城県出身。東京美術学校(現・東京芸大)卒。
1939(昭和14)年新制作派協会彫刻部創立に参加。昭和19〜昭和23年まで兵役、シベリア抑留。1960(昭和35)年高村光太郎賞。1966(昭和41)東京造形大教授。1974(昭和49)年毎日芸術賞、芸術選奨。1975(昭和50)年「カンカン帽」で中原悌二郎賞。1985(昭和60)年朝日賞。戦後の具象彫刻界の代表的存在として知られる。
関連頁 (比治山公園)ポケット   (西部埋立第五公園)裸のリン  (グランドパーキング大手町)裸婦・朱
みかわきいち
澄川 喜一
(1931-   )
彫刻家。島根県出身。東京芸大卒。
1959(昭和34)年新制作派協会展に出品、1963(昭和38)年会員となる。1979(昭和54)年平櫛田中賞。1980(昭和55)年「そりとそぎのあるかたち」で中原悌二郎優秀賞。1988(昭和63)年吉田五十八賞を受賞。1981(昭和56)年東京芸大教授となりH7学長となる。木を素材に、弓のような「そりのあるかたち」を追求する。
関連頁 (比治山公園)安芸の翼  (アステールプラザ角)TO THE SKY
ふなこしやすたけ
舟越 保武
1912-2002
彫刻家。岩手県出身。東京美術学校(現・東京芸大)卒。
1939(昭和14)年新制作派協会彫刻部創立に参加。1962(昭和37)年「長崎二十六聖人殉教者記念像」で高村光太郎賞。1967(昭和42)年東京芸大教授。のち多摩美大教授。1972(昭和47)年「原の城」で中原悌二郎賞。1978(昭和53)年芸術選奨。戦後の具象彫刻をリードする存在でブロンズほか大理石も手がける。1999(平成11)年文化功労者。
著作に「巨岩と花びら」(昭和58年日本エッセイスト・クラブ賞)など。
関連頁 (比治山公園)笛吹き少年  (比治山公園)EVE  (広島駅の)牧歌  (エリザベト音大)聖セシリア
参考頁 (長崎の)日本二十六聖人殉教者記念像
ほんごうしん
本郷 新

1905-1980
彫刻家。北海道札幌生まれ。1928(昭和3)年東京高等工芸学校(現・千葉大)彫刻部卒。
高村光太郎(1883-1956)に師事。国画創作協会に新設された彫刻部に出品、1934(昭和9)年会員となった。1939(昭和14)年佐藤忠良、舟越保武らと新制作派協会彫刻部を創立し会員となった。戦没学生記念像『わだつみのこえ』などモニュメンタルな造形を志向し、木彫も手がけた。パリ、アントワープなどの国際彫刻展にも出品し、日本国際美術展優秀賞、日本平和文化賞1953(昭和28)年などを受賞した。作品の多くは札幌彫刻美術館に収蔵されているという。

関連頁 (平和記念公園)嵐の中の母子像
やなぎはらよしたつ
柳原 義達
(1910-  )
彫刻家。兵庫県神戸市生まれ。東京美術学校彫刻科卒業。1939(昭和14)年新制作派協会彫刻部創設に参加。1953(昭和28)年渡仏(ブールデルの弟子)エマニュエル・オリコストに師事。1956(昭和31)年 第3回現代日本美術展優秀賞第1回高村光太郎賞受賞。日本の具象彫刻を代表する一人である。
関連頁 (平和大通り)瞑想(ラ・パンセ)像  (市役所)道標・鳩  (日赤病院)道標・鳩
よこえよしずみ
横江嘉純
1887-1962
彫刻家。富山県出身。東京美術学校(現:東京芸大)卒
1918(大正7)年文展に初入選。昭和3年『大乗』で帝国美術院賞。のち帝展、新文展、日展の審査員。寓意的な作品を得意とした。作品に『われらが生きる太陽(追慕の像)』東京駅前広場にある『愛の像』など。
関連頁 (平和記念公園)祈りの像
よしだまさなみ
吉田正浪
1936-2011
彫刻家。現・尾道市因島生まれ。広島大教育学部美術科卒。新制作協会会員
1982(昭和57)年比治山女子短大(現 比治山大学)教授。2005(平成17)年ひろしま文化賞受賞。2007(平成1)年広島県教育賞受賞。2011年1月25日脳出血のため尾道市因島田熊町の自宅で死去。
関連頁   旧天神町南組慰霊碑  灘尾弘吉像  わがまち  青年  衣笠祥雄顕彰  加藤友三郎像
フゴー・ラサール神父像  鈴木三重吉生誕の地・碑  ペドロ・アルペ神父像  山田十竹先生・像 
                  
11.01.30追記
いりのただよし
入野忠芳
1939−2013
画家。広島市出身、被爆者。武蔵野美術学校卒。5歳の時路面電車と接触し左手を切断。
1994(平成6)年アジア大会記念芸術大賞展 大賞受賞 :「風成」。2000(平成12)年広島工業大学環境デザイン学科特任教授。2006(平成18)年広島文化賞受賞。

1989(平成元)年広島城築城400年を記念した広島拘置所壁画(縦2m、全長≒190m)を制作。2009(平成21)年から修復に着手、2013年春完了。2013年10月24日胆管がんのため死去。

関連頁 広島拘置所・外壁画
おおき しげる
大木 茂
1899-1979
洋画家。広島市に生まれ。被爆者。
1927(昭和2)年若山為三(1893-1961)、斎藤与里(1885-1959)に師事する。1931(昭和6)年第4回槐樹社展、第12回帝展に初入選。1936(昭和11)年東光展で受賞、1944(昭和19)年東光会会員。戦後、東光会審査員、広島県美術展審査員。1977(昭和52)年勲五等瑞宝章受章。
関連頁 (三滝寺建立)(大木茂)平和祈願碑 09.02.20編集
おおた ちゅう
太田 忠
1908-1971
洋画家。広島市西蟹屋町に生まれる。広島東高等小学校卒業。
1923(大正12)年日本国有鉄道広島機関庫に就職。機関車好きの中西利雄(洋画家:1900-1948)から小磯良平(洋画家:1903-1988)を紹介され以後小磯に師事しました。 1938(昭和13)年から1963(昭和38)年定年退職するまで三次市三次町西中町に住み、機関士のかたわら絵の道に励みました。1941(昭和16)年第6回新制作展に出品した「雪景」が岡田賞を受賞、「機関士画家」として全国的に名を馳せていきました。
退職後2度渡仏し画境を広げたと云われています。(広島県)県北の風景を独特の材質感と鮮やかな色彩で描いた作品を多く残しているそうです。
関連頁 (JR芸備線)ヘッドマーク:太田忠号 12.10.11編集
おくだげんそう
奥田元宋
1912-2003
日本画家。広島県双三郡吉舎町生まれ。本名厳三。(旧制)日彰館中卒。
1930(昭和5)年上京、児玉希望(1898-1971)門下。1936(昭和11)年文部省美術展覧会鑑査展(文展)で「三人の女性」初入選。以後、新文展、日展で特選。1962(昭和37)年新日展で「磐梯」文部大臣賞、翌(1963)年日本芸術院賞受賞。1974(昭和49)年吉舎町名誉町。1981(昭和56)年文化功労者。1984(昭和59)年文化勲章受賞。1989(平成元)年広島県名誉県民。
☆藝術に疎く代表作が何であるかも知らないわたしでも「元宋の赤」といわれる独特な赤色が特徴とされる画家ということは知っていました。
関連頁 (県立広島病院陶版画の)「渓澗春耀」「渓澗秋耀」
おくだ さゆめ
奥田小由女
(1936-   )
人形作家。大阪府堺市生まれ。旧姓・川井小由女。(広島県)日彰館高等学校卒業。
紅実会人形研究所・林俊郎に師事。1959(昭和34)年現代人形美術展、日本女流人形展で受賞。1972(昭和47)年第4回日展で「或るページ」特選。1976(昭和56)年奥田元宋(画家1912-2003、1984年文化勲章受章者)と結婚。1988(昭和63)年第20回日展で「海の詩」文部大臣賞。1990(平成2)年第22回日展「炎心」で日本芸術院賞を受賞。1998(平成10)年人形作家として初の日本芸術院会員。2008(平成20)年文化功労者。

関連頁 (県婦人会館)天翔る讃歌   (県立病院)愛天心    平和の晨
08.11.20更新
かきてしゅんぞう
柿手春三
1909-1993

画家。広島県双三郡三良坂町大字長田生まれ。県立三次中学校。
1928(昭和3)年画家を志し上京。1932(昭和7)年豊島区長崎東町雀ヶ丘アトリエ村に住む。1940(昭和15)年病気治療で帰郷、広島市内の病院で手術。1941(昭和16)年三次高等女学校の美術教師。1946(昭和21)年三次文化協会結成、民主化運動を行う。1949(昭和24)年第13回自由美術展に「アジアの森」出品。会員に推挙される。1952(昭和27)年県立海田高校転勤、安芸郡船越町に転居、後観音高校、西条農業高校(1970年退職)。1974(昭和49)年海田湾埋立反対運動「海田湾を囲む住民連合の代表」。1978(昭和53)年田湾埋立反対訴訟原告代表、自由美術協会退会。1984(昭和59)年第32回東京平和展に「燃える元安川」出品。1989(平成元)年ひろしま海と島の博覧会・尾道会場に「はげ山のある島」招待出品。1992(平成4)年『広島の画家100人展』へ「どっこい生きている被爆の樹」招待出品。
関連頁 (三良坂平和美術館(柿手春三)常設館
09.04.14更新
かとうとうくろう
加藤唐九郎
1898-1986
陶芸家。愛知県瀬戸の生まれ。伝統的陶芸の研究・再現に努め、卓越した技倆(ぎりょう)を示した。
1914(大正3)年 築窯し、作陶に入る。1952(昭和27)年 織部焼の技術で国の無形文化財有資格者に認定される。著書は一無斎と号し「陶器大辞典」など

関連頁 (県民文化センター)潮音
かとりまさひこ
香取正彦
1899-1988
鋳金家。東京出身。東京美術学校(現・東京芸大)卒業。香取秀真ホツマ(鋳金家)の長男。
1949(昭和24)年から釣鐘制作をはじめ、比叡山延暦寺、成田山新勝寺、広島平和の鐘を手がける。1953(昭和28)年芸術院賞。1977(昭和52)年人間国宝。

関連頁 (平和記念公園)平和の鐘 (平和記念資料館東館)平和の鐘  (妙光寺の)平和の鐘
こばやし せんこ
小林千古
1870-1911
洋画家。本名は花吉。廿日市地御前生まれた。
18歳の時に、移民労働者とともに米国に渡り絵画の道を志した。その後、米国から欧州に渡り、名画に接して絵画に対する理念を学び、日本洋画壇において、宗教画を発表している。41歳という若さで病没したため、千古の残した絵画は少ないが、南薫造など郷土の洋画壇の与えた影響は大きいと言える。彼の代表作には「パッション」(1901年)などがある。
関連頁 (廿日市)小林千古生誕の地碑、小林千古のお墓   (小林千古作)誘惑
しこく ごろう
四国五郎
1924-2014
画家。広島県椹梨(くわなし)村(現三原市)出身。
徴兵と3年間のシベリア抑留を経て1948(昭和23)年復員。弟の被爆死を知る。広島市役所に勤める傍ら1949(昭和24)年創刊の詩誌「われらの詩(うた)」に峠三吉、深川宗俊らと参加し挿絵や反戦詩を寄せる。1955年第1回原水爆禁止世界大会に協賛し、柿手春三、増田勉、福井芳郎らと広島平和美術展を創設(事務局長を勤める)。1997(平成9)年第18回広島文化賞受賞。2014年3月30日脳出血のため死去。山口勇子著絵本「おこりじぞう」の挿絵。峠三吉著「原爆の詩集」表紙絵。広島百橋など。

関連頁 (設計をした)大田洋子文学碑    (描いた絵がある)古川に架かる三川橋
14.04.02.編集
にいのべてるお
新延輝雄
1922-2012
洋画家。広島市(現・中区)出身。広島高等師範学校付属中学、東京美術学校油画科卒業。南薫造(1883-1950)に師事。1945(昭和20)年原爆で両親を喪う。
広島大学講師など、光風会展、日洋展に出品。広島洋画研究所を主宰。1948(昭和23)年日展初入選、1992(平成4)年から評議員、2002(平成14)年から参与。日洋会顧問、広島日展会名誉顧問。
1993(平成5)年広島文化賞、1997(平成9)年中国文化賞受賞。
関連頁 (平和記念資料館・東館地下1階ロビー)原爆忌はるかに 12.08.11編集
はらみちを
(1928-   )
兵庫県神戸市生れ。脳性小児麻痺のため、お母さんに背負われて学校に通う。
1968(昭和43)年頃から母をテーマに創作詩画として独自の世界を作り上げる。 1970(昭和45)年中国新聞80周年記念論文「人間」最優秀賞。2006(平成18)年4月はらみちを美術館三次市(旧君田村)に開館。現在広島市東区在住*。
2014年6月20日中國新聞報道で「はらみちをさん 三次市君田に移住」された事を知りました。
1968(昭和43)年から東区牛田に住んでいた自宅の借地がマンション建設計画地になったことで、高齢で一人暮らしだったので2014年6月19日「君田トエンティワン」(障害者支援施設)に入所。今後、はらみちを美術館などで詩画教室などを開いて過ごされるそうです。
14.06.20追記
関連頁 (東区牛田)ピカドンたけやぶ  (三次市君田)はらみちを美術館
ひらやまいくお
平山郁夫
1930- 2009
日本画家。広島県豊田郡瀬戸田町に生まれ。1998(平成10)年広島県名誉県民
1945(昭和20)年8月6日修道中在学時勤労動員先の広島陸軍兵器支廠で被爆。1952(昭和27)年東京美術学校を卒業。以後前田青邨 (1885-1977)に師事する。翌年第38回院展で初入選。1964(昭和39)年日本美術院同人となる。1970年同院評議員、1996(平成8)年理事長となる。1973(昭和48)年東京芸大教授、1989(平成元)年学長。1998(平成10)年文化勲章受章。仏教伝来の淵源を求め、さらに東西文明交流の跡を訪ねて中国、インドから中近東にまで足を伸ばし、その成果を端整で幻想的な一連の作品群として発表し続けている。法隆寺金堂壁画の再現模写にも携わった。2000(平成12)年奈良・薬師寺玄奘三蔵院に『大唐西域壁画』を完成させた。2009年12月2日午後零時38分脳梗塞のため死去。
関連頁 (平和記念資料館)平和のキャラバン・東   平和のキャラバン月(西)   広島生変図
(修道学園)「歴史に生きる」碑
ふくだ しげお
福田 繁雄
1932 -2009
グラフィックデザイナー。東京都出身。東京芸術大学図案科卒業。
1981(昭和56)年東京芸術大学助教授。1997(平成9)年紫綬褒章受章。東京国立近代美術館運営委員。日本グラフィックデザイナー協会会長。単純化された形態とトリックアートを融合させたシニカルなデザインが特徴とされるそうです。
1989(平成元)年JR広島駅南口地下道入口正面壁に、1999(平成11)年地下道壁にハートの断面を組合わせたレリーフ「はと」を制作。2009年1月11日くも膜下出血で死去。

関連頁 (広島駅前)はと 09.01.16追記
ますだつとむ
増田勉
1916-2007
画家。観音中学校校長。被爆者(爆心地から約1500m比治山橋たもと)。広島市的場町(現・東区曙)生まれ。段原小学校卒。広島県師範学校附属小学校高等科卒。広島県師範学校本科第一部卒。
市内各小学校中学校教論。1949(昭和24)年二科展に初出品。1963(昭和38)年二科会会員推挙。1985(昭和60)年広島市文化功労賞。1997(平成9)年地域文化功労章・文部大臣表彰。91歳急性骨髄性白血病で死去。

関連頁 ( 広島市東区民文化センター展示)(壁画)ヒロシマの風景 13.05.12.編集
まるきいり
丸木位里
1901-1995
日本画家。広島県安佐郡飯室村(現・広島市安佐北区安佐町飯室)生まれ。
はじめ日本南画院展、1936(昭和11)年から1938昭和13(年までは青龍社(せいりゅうしゃ)展に出品。翌(1939)年美術文化協会結成に参加、1947(昭和22)年まで会員として活躍。また、1946(昭和21)年日本美術会創立にも加わる。1947(昭和22)年美術文化協会を脱退、前衛美術会をおこすが、1949(昭和24)年には同会を退き、以後無所属となる。
1941(昭和16)年赤松俊(とし:1912-2000)と結婚。1945(昭和20)年8月6日広島に原爆が投下されると、飯室の船宿をたたみ広島市の三滝(現・西区三滝)に移住していた父母など実家の家族の安否を気遣い、俊とともに被爆直後の広島に赴き救援活動に従事。この体験をもとに1950(昭和25)年妻の俊と「原爆の図」第一部「幽霊」を共同制作、同(昭和25)年第3回日本美術会アンデパンダン展に出品して大きな反響をよぶ。以後、「原爆の図」は、「火」「水」と描き続けられ、1953(昭和28)年これに対して国際平和文化賞(世界平和評議会による金メダル賞)が与えられた。これらを公開するため、1966(昭和41)年埼玉県東松山市移住、原爆の図丸木美術館を1967(昭和42)年開設。1970(昭和45)年米国各地で巡回展が催され、1984(昭和59)年までに15部が完成した。晩年は水墨による自由で力強い風景画の制作にも取り組んでいた。
関連頁 ( 広島市安佐北区民文化センター)(絵画)マッターホルン、(襖絵)松・竹・梅 13.04.03.編集
おおきあつお
大木惇夫
1895-1977
詩人。広島市天満町の呉服商家に生れる。広島商業卒。本名;軍一。筆名:篤夫のちに惇夫。
銀行に勤め約3年後に上京、博文館に勤務。夜間正則英語学校やアテネ・フランセで学ぶ。1921(大正10)年大阪朝日新聞の懸賞小説に入選、文筆で立つと決意し小田原に移住。北原白秋に師事し、1925(大正14)年第一詩集「風・光・木の葉」発表。1930(昭和5)年「危険信号」。歌謡曲の作詞に「国境の町」がある。1941(昭和13)年戦争勃発し(海軍の)宣伝班としてジャワに応召、戦争末期に健康を害し福島県浪江で療養、敗戦をむかえる。戦後、戦時中の愛国詩などにより非難を浴び、窮迫と沈黙の日が続いた。1947(昭和22)年「風の使者」。1965(昭和40)年「失意の虹」などがある。1967(昭和42)年紫綬褒章、1972(昭和47)年勲四等旭日小綬章。
関連頁 祈りの像  大木惇夫詩碑  広島商業学校職員生徒慰霊碑  流離抄  三瀧寺  ひなた
09.02.20追記
おおたようこ
大田洋子
1903-1963
小説家。広島県山県郡原村大字中原生まれ。進徳高女卒。本名は初子。
戦前は「女人芸術」の同人になり私小説風の恋愛小説を発表する。疎開途中に滞在していた白島九軒町の妹の家で被爆。
終戦直後に発表されたエッセイ「海底のような光」(「朝日新聞」)を皮切りに、炎に追われ、逃げ延びた原爆の悲惨な状況を「屍の街」「人間襤褸」(女流文学者賞)「半人間」などの作品を発表。原爆症発症の恐怖と闘いながら、常に原爆の使用を告発する強い姿勢をとり続けたが、1955(昭和30)年「夕凪の街と人と」を最後に晩年は原爆小説から距離を置くようになる。1963(昭和38)年取材旅行先の福島県猪苗代町で心臓麻痺により死去。
関連頁 (中央公園)大田洋子文学碑    (宝勝院)大田洋子被爆の地・碑
10.09.17追記
おのえ さいしゅう
尾上柴舟
1876-1957
明治・大正・昭和期歌人、書家 。岡山県津山出身。東京帝大国文科卒。本名八郎。
落合直文(歌人・国文学者1861-1903)に歌を学ぶ。1902(明治35)年金子薫園(歌人1876-1951)と「叙景詩」出版、明星派に対して叙景詩運動を進めた。1905(明治38)年車前草社〉を結成。歌集、「静夜」「永日」「白き路」「空の色」「間歩集」など。書家として「平安朝時代の草仮名の研究」「歌と草仮名」などの著書。お茶水女高師(現女子大)教授など。1937(昭和12)年芸術院会員。
関連頁 (三滝寺の)尾上紫舟歌碑
かじやまとしゆき
梶山季之
1930-1975
(昭和戦後の)作家。京城(ソウル)生まれ(京城で学徒動員されたまま敗戦を迎え戦後両親の郷里地:広島県佐伯郡廿日市町地御前へ引揚げた)。広島高等師範学校国文科卒。
1958(昭和33)年ルポライターになり、1959年「週刊文春」創刊に際しトップ屋グループをつくる。1962(昭和37)年「黒の試走車」で文壇にデビュー、トップ屋をやめ時代感覚とサービス精神にあふれた小説を発表流行作家となる。1971(昭和46)年雑誌「噂」創刊。長編「積乱雲」未完のまま取材旅行中の香港で1975(昭和50)年5月11日没した。1962(昭和37)年「赤いダイヤ」1964年「影の凶器」などの著作等がある。
関連頁 (加古町)梶山季之文学碑   (地御前)梶山家の墓   (酒のモニュメント)梶山季之のパネル  
さのしんぺい
草野心平
1903-1988
詩人。福島県出身。中国広州の嶺南大中退。
在学中の1925(大正14)年詩誌「銅鑼ドラ」創刊。帰国後の1928(昭和3)年アナーキスティックな心情を蛙に託した第1詩集「第百階級☆」をだし「学校」を創刊。1935(昭和10)年「歴程」創刊に参加し戦後は主宰する。1948(昭和23)年「定本蛙」で第1回読売文学賞。1975(昭和50)年芸術院会員。1983(昭和58)年文化功労者。1985(昭和60)年文化勲章受賞。
☆「蛙はでつかい自然の讃嘆者である」等の作品がある。
関連頁 (平和記念公園)平和祈念像   (西条酒のモニュメント)草野心平のパネル 10.04.29追記
くぼた まんたろう
久保田万太郎
1889-1963
小説家、劇作家、俳人。東京生まれ。生家は浅草で袋物製造販売業を営む。
府立三中(現両国高校)から慶応義塾大学普通部へ転じたころから、文学を志す。慶大在学中に、『三田文学』に小説『朝顔』(1911)を発表し、また戯曲『Prologue(プロロオグ)』が雑誌『太陽』の懸賞に当選(1911)したことから、三田派の新進作家として認められ、第一作品集『浅草』(1912)を刊行。1917(大正6)年、初期の代表的小説『末枯(うらがれ)』を書き、また、『大寺(おおでら)学校』(1927)などの戯曲や、新派の演出などを手がけて劇壇にも接近。1926年以降東京中央放送局(現在のNHK)に勤め、小説『春泥』(1928)、『花冷え』(1938)などの佳作や、第一句集『道芝』(1927)を刊行し、また築地座を経て文学座の創立に加わり、新派の舞台にも脚本を提供するなど、多彩な活動を繰り広げる。戦後は日本芸術院会員となり、1957(昭和32)年文化勲章を受けた。俳句はつねに余技と称したが、独特な情緒と技巧をもつ秀句も多く、戦後、俳誌『春燈(しゅんとう)』を主宰した。

関連頁 (三滝寺多宝塔横)久保田万太郎句碑
参考頁 (番外:東京・浅草の)久保田万太郎誕生の地碑
くらた ひゃくぞう
倉田百三
1891-1943

(大正〜昭和初期の)劇作家、評論家。広島県(庄原市)出身。旧制三次中学卒。一高中退(結核を患い)。
一高在学中に西田幾太郎(1870-1945)の影響を受ける。1917(大正6)年戯曲「出家とその弟子」により求道的な文学者として出発。1921(大正10)年評論集「愛と認識との出発」を発表当時の青年の必読書となる。1926(大正15)年「生活者」を創刊、主宰。白樺派と交流を深め社会問題に関心を寄せたが、晩年は超国家主義に傾いた。戯曲「俊寛」など。
☆純な青年時代を過ごさない人は深い老年期持つ事も出来ないのだ(「出家とその弟子」より)
関連頁 (南区丹那)倉田百三文学碑   (岩崎病院)倉田百三文学碑   (三次高校)倉田百三文学碑
13.04.29更新
くりはらさだこ
栗原貞子
1913-2005
詩人。広島市可部町に生まれ。広島県立可部高女卒。
1931(昭和6)年アナーキスト栗原唯一と結婚。戦時「人間の尊厳」などの反戦詩を書く。1945(昭和20)年8月6日(月)広島市祇園町長束で被爆。1945年末夫の唯一や細田民樹らと「中国文化連盟」を結成し、1946年3月いち早く原爆の被害を特集した雑誌「中国文化」を創刊。1946年検閲による削除は受けたが、原爆の惨状を描いた詩歌集『黒い卵』を出版。罹災後の瓦礫の中で新たな生命が誕生した一夜を歌った「生ましめんかな」など多くの詩篇、また核兵器の廃絶を訴え「私は広島を証言する」「ヒロシマ・未来風景」などを刊行など幅広い活動をされている。2002年1月1日‘新世紀を平和の世紀に’のメッセージを出されました。2005(平成17)年3月6日死去。

関連頁 (原爆被災説明板)広島貯金支局  郵政関係職員慰霊碑   わたすの母子像:詩碑
こんどうよしみ
近藤 芳美
1913-2006
歌人。本名:芽美。建築技師。旧朝鮮慶尚南道・馬山生まれ。(父の郷里)広島市鉄砲町で育つ。広島二中。旧制広島高校在学中、中村憲吉(歌人1889‐1934)に会い「アララギ」入会、土屋文明(歌人1890-1990)、に師事。東京工業大学卒。
戦時中、中国戦線に召集。1947(昭和22)年「新歌人集団」結成に参加、評論「新しき短歌の規定」発表。1948(昭和23)年歌集『早春歌』『埃吹く街』刊行、平和への希求を基底にした歴史意識で一貫した作品を発表。
1968(昭和43)年歌集「黒豹」で迢空賞、1985(昭和60)年「祈念に」で詩歌文学館賞、1990(平成2)年「営為」で現代短歌大賞、1994(平成6)年「希求」で斎藤茂吉短歌文学賞を受賞した。1951(昭和26)年歌誌「未来」創刊、編集発行人。1956(昭和31)年現代歌人協会設立。1996(平成8)年文化功労者。朝日新聞をはじめ、中國新聞の短歌欄の選者も務めた。

関連頁 (宇品波止場公園)陸軍桟橋跡記念歌碑   (妙詠寺の)歌碑 11.07.24追記
さいがただよし
雑賀忠義
1894-1961
英文学者。和歌山県出身。京都帝大卒。被爆者。
1924(大正13)年広島高教授。1949(昭和24)年広島大教授になる。原爆死没者慰霊碑の設置が決まった1951(昭和26)年濱井信三広島市長の依頼で碑文に「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」の一文をえらび揮毫した。著作に「英詩入門」など。
関連頁 (平和記念公園)原爆死没者慰霊碑   本川小学校平和資料館
碑文の依頼年を訂正しました 07.07.23
ささき ひさこ
佐々木久子1927-2008
編集者、評論家、随筆家。広島市出身。広島女子商業学校卒業。広島大学卒業。
1955(昭和30)年4月雑誌「酒」創刊、1997(平成9)年501号まで(42年間)編集長を務める。1966(昭和41)年梶山季之(1930-1975:小説家)、藤原弘達(1921-1999:政治評論家)、石本美由起(1924-2009:作詞家)、杉村春子(1906-1997:新劇女優)、森下洋子(1948-   :バレエダンサー)ら、広島出身者や大宅壮一(1900-1970:ジャーナリスト)、田辺茂一(1905-1981:出版事業家)らと「広島カープを優勝させる会」を結成、代表世話人。(※カープは初優勝1975年=昭和50年)。1985年、厚生省(現厚生労働省)の諮問機関「おいしい水研究会」委員に就任した。2008(平成20)年6月28日死去。

関連頁 (東広島市・西条:酒のモニュメント)佐々木久子パネル
10.02.28編集
さとうはるお
佐藤春夫
1892-1964
詩人、小説家。和歌山県出身。慶應義塾大学中退。
生田長江、与謝野鉄幹らに師事。「スバル」「三田文学」などに詩を発表、小説「田園の憂鬱」で注目される。1921(大正10)年「殉情詩集」を刊行。また、評論随筆集「退屈読本」中国詩を訳した「車塵集」などがある。作品はほかに「都会の憂鬱」「晶子曼荼羅」など。1960(昭和35)年文化勲章受賞。
☆ あはれ 秋風よ 情ココロあらば伝えてよ 
  男ありて 今日の夕餉に ひとり さんまを食ひて 思いにふける と。 「秋刀魚の歌」より

関連頁 (平和記念公園)原民喜詩碑
じゅがくぶんしょう
寿岳文章
1900-1992
(昭和時代の)英文学者、書誌学者。兵庫県出身。京都帝大卒。旧姓鈴木。妻は寿岳しづ(翻訳家、随筆家1901-1981)
関西学院大、甲南大などの教授を歴任。英詩人W.ブレイクを研究し昭和4年「ヰリヤム・ブレイク書誌」をあらわす。書誌学、和紙研究会の先駆者として知られ、1937(昭和12)年新村出(言語学者1876-1967)らと和紙研究会を結成。ダンテの「神曲」を完訳し、1977(昭和52)年讀売文学賞。著作に「書物の世界」「和紙風土記」など

関連頁 (中央図書館前の)エドマンド・ブランデン詩碑
しょうだしのえ
正田篠枝
1910-1965

歌人。広島県江田島町秋月生まれ。安芸高等女学校卒。正田誠一(1915-1974、経済学者)の姉。
10歳から広島市に住み短歌を親しんできた。杉浦翠子(歌人:1885-1960)にまなぶ。1945(昭和20)年8月6日平野町の自宅で被爆、その惨状を歌に詠み、1947(昭和22)年12月には最も早く原爆を歌にした詩集「さんげ」を私家版として秘密裏に出版した。
その後有志と共に「原水爆禁止母の会」を結成、原水爆禁止を訴えた。著書に「耳鳴り」(1962年)、「百日紅」(1966年)、童話集「ピカ子ちゃん」(1977年)などがある。
1963(昭和38)年原爆症乳がんと宣告され「南無阿弥陀仏」三十万名号の筆をとり、1965(昭和40)年に達成しましたが、同(昭和40)年6月15日原爆症で死去。

関連頁 (平和記念公園)原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑
*写真は、広島中央図書館広島文学資料室展示パネルを撮影しました。 12.06.27追記
すずきみえきち
鈴木三重吉
1882-1936

小説家、児童文学者。1882(明治15)年広島市猿楽町83番地の1(現・広島市中区大手町2丁目1の13)に生まれた。
本川小学校、広島一中、第三高等学校を経て現・東京大学(当時・東京帝國大學)英文科在学中の1905(明治38)年病気療養のため能美島を訪れ、そこでの体験をもとに短編小説『千鳥』を書き上げた。『千鳥』は夏目漱石(1864-1916)から絶賛された。以後、山県郡加計町を舞台とした『山彦』などの秀作を発表し、漱石門下生として活躍を続けたが、1915(大正4)年にいったん筆を折ってしまう。
 小説家としての行き詰まりを自覚した三重吉は、児童文学に自らの進むべき道を見いだし、1918(大正7)年には森鴎外(1862-1922)らの賛同を得て、児童雑誌『赤い鳥』を創刊。芸術的に価値のある童謡・童話を子どもたちに提供しようという画期的な運動をスタートさせた。
三重吉はもちろん、芥川龍之介(1892-1927)や有島武郎(1878-1923)、北原白秋(1885-1942)らが傑作を次々と発表。わが国の児童文学は新しい時代を迎えることになる。『赤い鳥』には児童の投稿欄も設けられ、特につづり方、児童詩の教育活動に大きな影響を与えた。
生きたいというのは寂寥と悪闘しようとする執着でなければならない。「小鳥の巣」
関連頁 鈴木三重吉文学碑  三重吉記念碑  三重吉生誕の地碑  (長遠寺)三重吉のお墓
08.11.12更新
たかはまきょし
高浜虚子
1874-1959
俳人、小説家。松山生まれ。(旧制)第二高等学校中退。本名・高濱清(きよし)。正岡子規に師事。
「ホトトギス」を主宰、客観写生・花鳥諷詠を主張し、俳句の普及と後輩の育成に努めた。写生文・小説もよくし、「鶏頭」「俳諧師」「柿二つ」などの創作がある。句集「五百句」など。

関連頁 (本照寺)高濱虚子句碑   (正蓮寺)句鋳入梵鐘 
参考頁 番外(和布刈神社)高濱虚子句碑
たねださんとうか
種田山頭火
1882-1940

俳人。山口県生まれ。本名、正一。早大中退。
「層雲」に参加。荻原井泉水門下。1924年(大正14年)得度し「耕畝」と名乗る。1925(大正15)年熊本市曹洞宗・報恩寺で出家得度、のち寺を出て雲水姿で西日本を中心に旅し句作を行う。1932(昭和7)念郷里山口・小郡町に「其中庵」結庵。1939(昭和14)念松山市に移住「一草庵」結庵。句集「草木塔」、日記紀行文集「愚を守る」など。
瀬野川流域を行乞行脚したのは1933(昭和8)年9月19日〜20日、上瀬野・一貫田に一泊し俳句十六句と日記を残しています。

関連頁 (上瀬野の)種田山頭火句碑  (仏通寺の)句碑  (西区井口の)句碑  (西区井口の)句碑
参考頁 (防府駅前)種田山頭火句碑、(防府駅前)生誕120年記念:種田山頭火歌碑
他(防府市建立の歌碑もあります)「防府ぶらり散歩」編
*写真は、防府市設置の説明板を撮影しました。 12.06.27追記
つちやきよし
土屋清
1930-1987
劇作家、演出家。広島市水主町生まれ。劇団「月曜会」創立、全日本リアリズム演劇会議議長団。1963(昭和38)年峠三吉を描いた芝居「河」初演。主な作品「星を見つめて」。1987(昭和62)年11月8日癌にて死去。
関連頁 (三瀧寺の)土屋清詩碑
とうげさんきち
峠三吉
1917-1953
詩人。大阪府生まれ。幼時期に広島へ移る。1935(昭和10)年広島商業卒。広島瓦斯(株)に勤務。本名・みつよし。
在学中より詩作を始め、勤務後まもなく結核罹患。キリスト教の洗礼を受ける。1945(昭和20)年8月6日広島で原爆被爆、原爆症に苦しみながら広島で文化運動のリーダーとなり、新日本文学会に参加。共産党入党。1950(昭和25)年「われらの詩の会」を結成。1951年謄写版の『原爆詩集』を出版。1952年詩集『原子雲の下より』を編集する。1953(昭和28)年手術中に死去、享年36歳の若さだった。
「にんげんをかえせ」と叫ぶヒューマンな叙情は戦後のドキュメンタリーとしても評価が高い。没後『峠三吉全詩集――にんげんをかえせ』(1970)が出版された。

関連頁 (平和記念公園)峠三吉詩碑   墓標   河のある風景  (西応寺)峠家のお墓
なかむらけんきち
中村憲吉
1889-1934

歌人。広島県双三郡(ふたみぐん)布野村(ふのそん:現・三次市布野町)に生れました。家は、祖父の代まで庄屋をつとめていましたが、父の代になって酒造業に転じ、この地方きっての素封家(そほうか)でした。
1906(明治39)年三次中学校を卒業、鹿児島第七高等学校(造士館一部甲類)に進み、1915(大正4)年東京帝国大学(法科大学経済科)を卒業し、結婚しました。翌(1916)年10月帰郷して家務につきました。1920(大正9)年4月西宮市外鉾池畔に居を定めましたが不況で就職口がありません、ようやく、1921(大正10)年11月から5年間大阪毎日新聞の経済部記者として勤務。1926(大正15)年3月家督相続を機に、4月末退社、6月家務で再び帰住。1930(昭和5)年ろく膜の病を得て、それ以来健康は回復せず、1934(昭和9)年5月5日尾道市千光寺公園の仮寓で没しました。享年46歳でした。
関連頁 広島ぶらり散歩「中村憲吉関連」編
     13.04.28三次高校建立歌碑追記      09.04.26編集
はらたみき
原民喜
1905-1951
  詩人、小説家。広島市幟町162に生まれる。広島高師附属中校、慶応義塾大学英文科卒業。
1933(昭和8)年永井貞恵(文芸評論家・佐々木 基一の姉)と見合い結婚。1936(昭和11)年ころより『三田文学』に散文詩風な短編を発表する。1944(昭和19)年9月貞恵死去。1945(昭和20)年1月末(千葉市登戸の家をたたみ)広島市の兄のもとに疎開。8月6日原爆投下時に幟町の生家で被爆、泉邸へ逃れ、広島東照宮下で野宿、そして佐伯郡八幡村に避難。この体験は『夏の花』『鎮魂歌』などの作品となる。
1946(昭和21)年4月上京、慶応大学夜間中学に(英語講師として)勤め、『三田文学』の編集に携わる。1947(昭和22)年『夏の花』を同誌に発表、世評高く、これにより第1回水上滝太郎賞を受賞。作品にはほかに『廃墟から』(1947年)、『壊滅の序曲』(1949年)、『心願の国』(1951年)、『原民喜詩集』(1951年細川書店)などがある。1951(昭和26)年3月13日夜中央線吉祥寺〜西荻窪間の鉄路で自殺(朝鮮戦争中でトルーマン大統領の原爆の使用もありうるという声明に失望してといわれています)。

関連頁 (平和記念公園)原民喜詩碑   (円光寺)原民喜のお墓  (広島東照宮)原爆65周年追憶碑
12.01.31追記
まさおかしき
正岡子規
1867-1902
(慶応3-M35)
俳人、歌人。伊予(愛媛県松山市)出身。帝国大文科大学中退。本名、常規(つねのり)。別号、獺祭書屋主人・竹の里人など。
1892(明治25)年日本新聞社入社、紙上で俳句の革新運動を展開。1895(明治28)年日清戦争の従軍記者として清国の金州取材日本へ帰る途中、喀血して帰松、1895(明治28)年以降は病床にあり、明治30年俳誌「ホトトギス」を創刊。明治31年におこした根岸短歌会に力をそそぎ、短歌の確信と写生による新しい俳句を指導、「歌よみに与ふる書」を著して万葉調を重んじた。また写生文による文章革新を試みるなど、近代文学史上に大きな足跡を残した。著作に句集「寒山落木」歌集「竹乃里歌」、ほか「獺祭書屋俳話」「病牀六尺」「仰臥漫録」など。

☆1895(明治28)年3月、日清戦争に従軍記者として派遣される時、宇品港に立寄り4月10日出港までの20日程広島に滞在した。
関連頁 (千田廟公園の)子規の句碑  (比治山公園の)子規の句碑
やましろともえ
山代 巴
1929-2004
作家。広島県芦品郡栗生村(現:府中市栗柄町)生れ。県立府中高女卒、東京女子美術専門学校(洋画師範科)1931(昭和6)年実家の破産で中退。1932(昭和7)年4月日本共産党に入党、工場労働者となる。1937(昭和12)年炭坑争議を指導した山代吉宗(1901-1945獄死)と結婚。治安維持法下で逮捕され、三次と和歌山の刑務所で服役。1945(昭和20)年8月1日病で仮釈放で実家に帰り、敗戦をむかえる、11月三原で共産党広島県委員会設立、入党。1955(昭和30)年1月〜1956年4月「荷車の歌」を『平和ふじん新聞』に連載。
関連頁 (三良坂コミュニティーセンター)山代巴記念室
09.04.15更新
やまずみ まもる
山隅 衛
1894-1960
歌人。広島県佐伯郡廿日市町(現:廿日市市)生れ。
1914(大正3)年天満小学校教師、2年後短歌を始める。1921(大正10)年文芸月刊雑誌「晩鐘」創刊。間茂留の名で俳句、短歌、童謡を掲載。1944(昭和19)年7月広島県国民詩歌協会設立・理事長。「晩鐘」は(休刊した時期もあったが)80年間続き、2001(平成13)年3月「合同歌集 晩鐘」を最後に終刊しました。
関連頁 (廿日市桂公園)歌碑    (三滝寺)歌碑(あしたには・・・)    (三滝寺)歌碑(つく鐘の・・・)
09.04.16更新
やまもと やすお
山本 康夫
1902-1983
歌人。長崎県生まれ。尾上柴舟(さいしゅう:歌人:1876-1957)に師事。
1930(昭和5)年中國新聞入社、11月「処女林」(広島短歌会発行)創刊。1931(昭和6)年「新樹」に改題、翌(昭和7)年「真樹」に改題。戦後、広島発の学年別教育誌「ぎんのすず」にも執筆。日本歌人クラブ中国地区幹事。歌集「萱原」「生命新象」「秋光」「生命讃歌」、歌論集に「短歌の真実」「歌話との随想」など。
関連頁 観音となりて平和を守り・・   原爆供養合同歌碑    (段原町原爆慰霊碑)句碑
(山王神社)歌碑  (三滝寺)歌碑(わがつい・・)  (三滝寺)歌碑(群れ・・・)
いしもと みゆき
石本 美由起
1924-2009
作詞家。広島県大竹市出身。本名、美幸。
少年時代はぜんそく気味だったそうです。1944(昭和19)年海軍大竹海兵団入隊、すぐ体調崩す。戦後、歌謡同人誌への投稿を経て、1948(昭和23)年「長崎のザボン売り」(歌:小畑実)のヒットで 、1950(昭和25)年キングレコードと専属契約。1951(昭和26)年コロムビアレコード社に移る。1984(昭和59)年紫綬褒章受章。1998(平成10)年勲三等瑞宝章受賞。
喚起力のある言葉、音感的にきれいな言葉、というのが作詞家としての信条だったそうです。
作曲家の古賀政男や遠藤実らとのコンビで歌謡曲を多数作詞。代表作は、美空ひばりが歌った「港町十三番地」「悲しい酒」、岡晴夫が歌った「憧れのハワイ航路」などなど。

関連頁 (大竹市)詩の坂道  詩の坂道・詩碑歌と故郷と思い出と・詩碑矢切の渡し・詩碑あゝ征長隊・詩碑
悲しい酒・詩碑柿の木坂の家・詩碑長良川艶歌・詩碑憧れのハワイ航路・詩碑亀居城春秋・詩碑
よしだたくろう
吉田拓郎
(1946-   )
シンガーソングライター(歌手、作詩・作曲家)。1946(昭和21)年4月5日鹿児島県大口市生まれ。1962(昭和37)年広島県立広島皆実高校入学。高校時代から音楽活動を始める。1965(昭和40)年広島商科大学入学、卒業。
1968(昭和43)年広島フォーク村誕生。その後、自主制作アルバム「古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう」発表。1970(昭和45)年デビューシングル「イメージの詩 / マークII」発表に続き「今日までそして明日から」を発表。1972(昭和47)年「結婚しようよ」「旅の宿」が空前の大ヒット。1974(昭和49)年吉田拓郎作曲「襟裳岬」がレコード大賞受賞。「シンシア」「人生を語らず」をリリース。1975(昭和50)年親しい仲間と「フォーライフレコード」を設立。「吉田拓郎・かぐや姫コンサートインつま恋」開催。1985(昭和60)年「ONE LAST NIGHIT IN つま恋」開催。1994(平成6)年NHK紅白歌合戦に初出場(唄:外は白い雪の夜)。1996(平成8)年テレビ番組「LOVE LOVE あいしてる」にレギュラー出演。2006(平成18)年31年ぶりにかぐや姫と「Forever Young Concert in つま恋コンサート」開催。

関連頁 (今日までそして明日から)歌碑
※参考にした資料は、主に講談社版・日本人名大辞典ですが他にも参考にした図書です。



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