広島ゆかりの人たち  No.1

  原爆関連慰霊碑巡りなど『広島ぶらリ散歩』している時に出逢った、栗原貞子さんの詩「生ましめんかな」、正田篠枝さんの短歌「太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり」などなど、どういう人物がつくられたのかなとおもい略歴を調べてきたものがはじまりで、頁を編集した時に調べた人たちをまとめていこうとしているのがこの頁です。
藝術分野     民間・文化分野     建築分野     政治分野     (明治以前)歴史分野     スポーツ分野    
歴代広島城主     歴代広島県知事     歴代広島市長    
18.04.24.追記   04.09.26裕・記編集
スポーツ分野
あきのうみ せつお
安藝ノ海節男  1914-1979
大相撲第37代横綱。広島市宇品町(現:南区宇品海岸)出身。宇品尋常高等小学校卒業。
1932(昭和7)年2月場所に出羽海部屋から永田節男の四股名で初土俵。1933(昭和8)年序二段の時、中國新聞・山本実一社長が名付け親となり「安芸ノ海」と改名。1936(昭和11)年1月場所新十両、1938(昭和13)年1月新入幕。1939(昭和14)年西前頭3枚目の1月場所4日目69連勝中の横綱双葉山(第35代横綱1912-1968) と初対戦に左外掛で勝ちました。1940(昭和15)年関脇の5月場所14勝1敗で初優勝(優勝はこの時のみ)。1941(昭和16)年1月大関に昇進。1942(昭和17)年1月に照国と共に横綱に昇進。しかし、大陸慰問巡業中にマラリアに感染、体調を崩したことから1946(昭和21)年に引退。その後、年寄不知火、藤島になり、1955(昭和30)年廃業。
関連頁 (観音寺)安芸ノ海のお墓
おだみきお
織田幹雄
1905-1998
(日本の代表的)陸上競技選手。広島県安芸郡海田町出身。早稲田大学商学部卒。1989(平成元)年広島県名誉県民。
広島一中時代の1924(大正13)年オリンピック・パリ大会三段跳びで6位入賞。1925(大正14)年に早稲田大学進学、当時「ホップ・ステップ・アンド・ジャンプ」という競技名を『三段跳び』と訳した。
1928(昭和3)年のオリンピック・アムステルダム大会日本チーム主将(参加選手43名)として参加、8月2日三段跳び決勝1回目15m13cm、2回目15m21cmの記録で米国のケーシーを4cm抑えて日本人として初めてオリンピックの金メダルを獲得した。
1931(昭和6)年には15m58cmの当時世界新記録をつくり、三段跳び王国日本の先駆者となった。
朝日新聞本社運動部長退任後、早稲田大学教授、国際陸連技術委員を歴任。東京オリンピックでは陸上競技の選手強化委員長を務めた。日本陸上競技連盟名誉会長。1988(昭和63)年文化功労者
関連頁 (海田町ふるさと館)織田幹雄関連展示
ねこた かつとし
猫田勝敏
1944-1983
バレーボール選手(セッター)、(専売広島)監督。1944(昭和19)年広島県安佐郡安古市町(現広島市)出身。崇徳高校。
1964(昭和39)年東京オリンピック出場、銅メダル獲得。1968(昭和43)年メキシコオリンピック出場、銀メダル獲得。1972(昭和47)年ミュンヘンオリンピック出場、金メダル獲得。1976(昭和51)年モントリオールオリンピック出場、4位。1983(昭和58)年悪性腫瘍で死去。

関連頁 猫田記念体育館
あなんじゅんろう
阿南準郎
(1937-  )
1986(昭和61)年優勝監督。大分県佐伯市出身。佐伯鶴城高。
引退後近鉄のコーチに就任。1974(昭和49)年古巣広島へ戻り、以後古葉政権を支えた。1985(昭和60)年オフに監督に就任。1年目の1986(昭和61)年に質量ともに円熟した強力投手陣を前面に押し出し(5度目の)優勝を成し遂げた。1988(昭和63)年年オフに勇退後、フロント入り。
1970(昭和45)年引退、実働15年、1415試合、3426打数、746安打、34本塁打、254打点、打率.218、43盗塁。
関連頁 広島東洋カープ・年度別成績   広島東洋カープ優勝記念碑
きぬがささちお
衣笠祥雄
1947-2018

元プロ野球選手。京都市東山区出身。平安高。
1965(昭和40)年捕手として入団。内野手に転向、1970(昭和45)年10月19日対読売戦から連続出場が始まる。1975(昭和50)年は5番を打ち、4番山本浩二と共に初優勝に貢献。1976(昭和51)年盗塁王。1984(昭和59)年打点王、MVP獲得、優勝に貢献。1987(昭和62)年連続試合出場記録2215試合で引退。国民栄誉賞受賞。1996(平成8)年野球殿堂入。
2677試合、9404打数、2543安打、504本塁打、1448打点、打率.270、266盗塁。

関連頁 衣笠祥雄顕彰碑
2018年4月19日横浜・讀賣戦の解説をされていたそうで、23日大腸がんで死去。24日ラジオで訃報を聞き、涙が出てきました。ご冥福をお祈りいたします。
こば たけし
古葉竹識

(1936-  )
1975(昭和50)年、1979(昭和54)年、1980(昭和55)年、1984(昭和59)年優勝監督。熊本県熊本市出身。専修大中退・日鉄鉱業二瀬。
遊撃手1963(昭和38)年首位打者争いを演じたこともあるが機動力を押すプレースタイルで1964(昭和39)年、1968(昭和43)年盗塁王。1970(昭和45)年南海ホークスに移籍、1971(昭和46)年引退、1972、1973(昭和48)年コーチ。1974(昭和49)年(広島に)コーチとして復帰。1975(昭和50)年15試合で帰国したジョー・ルーツ監督の後を継いで5月から監督に就任、球団創立初優勝を決めた。その後1979、1980、1984リーグ優勝・日本一。1985(昭和60)年勇退。1987-1989(平成元)年に横浜大洋の監督。1999(平成11)年野球殿堂入り。
1501試合、1369安打、44本塁打、334打点、打率.252、263盗塁
2003(平成15)年広島市長選に出馬、落選。2004(平成16)年自民党より比例代表で第20回参議院議員通常選挙に出馬、落選

関連頁 広島東洋カープ・年度別成績   広島東洋カープ優勝記念碑  市長選電子投票
つだ つねみ
津田恒実

1960 - 1993
元プロ野球選手。山口県出身。南陽工業高卒。「恒美」旧名。愛称「ツネゴン」。直球勝負人呼んで「炎のストッパー」。
ノンプロの協和発酵を経て、1981(昭和56)年ドラフト1位で広島東洋カープ入団。1年目1982(昭和58)年先発投手11勝6敗球団初の新人王。1986(昭和61)年抑え投手でカムバック賞、チーム5度目のセ・リーグ制覇に貢献。1989(平成元)年12勝5敗28セーブ最優秀救援投手。1990(平成2)年シーズン終了後から身体変調訴える。1991(平成3)年4月14日読売戦登板(9球でマウンドを降り)敗戦投手、生涯最後の登板。1993(平成5)年7月20日32歳悪性脳腫瘍で死去。通算成績49勝41敗90セーブ
関連頁 津田恒美顕彰板
やまもとこうじ
山本浩二
(1946-  )
1991(平成3)年優勝監督。広島県廿日市市出身。法政大学。
1968(昭和43)年ドラフト1位で入団。1975(昭和50)年年4番で30本塁打。同年首位打者、MVPにも輝きチームの初優勝に貢献。1977(昭和52)年から5年連続40本塁打を記録し、1978(昭和53)年、1980、1981、1983(昭和58)年と4度の本塁打王。打点王にも3度輝くなど衣笠祥雄と共にカープ黄金時代を築いた。1984(昭和59)年より打撃コーチ兼任。1986(昭和61)年リーグ優勝を花道に引退。
引退後1989(平成元)年監督に就任、1991(平成3)年リーグ優勝。1993(平成5)年年成績不振により辞任。2001(平成13)年監督に復帰した。2005(平成17)年シーズン終了後成績不振で辞任。
2284試合、8052打数、2339安打、536本塁打、1475打点、打率.290、231盗塁
「2008(平成20)年1月11日(日本)野球体育博物館の競技者、特別両表彰委員会は競技者として山本浩二の殿堂入りを発表した」事をTVで新聞報道で知りましたので追記しました。
関連頁 広島東洋カープ・年度別成績   広島東洋カープ優勝記念碑
2008年1月時点で
広島(東洋)カープ在籍者及関係者で野球殿堂入りした人たちを報道で知りましたので追記します。
石本秀一、小鶴誠、白石勝巳、別当薫、広岡達朗、衣笠祥雄、古葉竹識、根本陸夫、長谷川良平、山内一弘、上田利治、関根潤三、松田耕平、山本浩二
の14人になったそうです。
08.01.12追記
ジョー・ルーツ
1925-2008
1975(昭和50)年(優勝)監督。米国。
1972(昭和47)年インディアンス・コーチ時代アリゾナキャンプで広島ナインを指導。1973(昭和48)年打撃コーチとして来日、1975(昭和50)年監督に就任。同(1975)年4月27日阪神戦球審のボール判定を不服としたトラブルを起こし、退団する。通算成績は6勝8敗1分。
2008年10月20日死去されました。
関連頁 広島東洋カープ・年度別成績   広島東洋カープ優勝記念碑 08.10.27追記
※参考にした資料は、主に講談社版・日本人名大辞典ですが他にも参考にした図書です。



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広島ぶらり散歩へ
04.09.27設置












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