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あなんじゅんろう
阿南準郎
1937-2024 |
1986(昭和61)年優勝監督。
大分県佐伯市出身。佐伯鶴城高。
引退後近鉄のコーチに就任。1974(昭和49)年古巣広島へ戻り、以後古葉政権を支えた。1985(昭和60)年オフに監督に就任。1年目の1986(昭和61)年に質量ともに円熟した強力投手陣を前面に押し出し(5度目の)優勝を成し遂げた。1988(昭和63)年年オフに勇退後、フロント入り。
1970(昭和45)年引退、実働15年、1415試合、3426打数、746安打、34本塁打、254打点、打率.218、43盗塁。
2024年7月30日死去、享年86歳。
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きぬがささちお
衣笠祥雄
1947-2018
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元プロ野球選手。
京都市東山区出身。平安高。
1965(昭和40)年捕手として入団。内野手に転向、1970(昭和45)年10月19日対読売戦から連続出場が始まる。1975(昭和50)年は5番を打ち、4番山本浩二と共に初優勝に貢献。1976(昭和51)年盗塁王。1984(昭和59)年打点王、MVP獲得、優勝に貢献。1987(昭和62)年連続試合出場記録2215試合で引退。国民栄誉賞受賞。1996(平成8)年野球殿堂入。
2677試合、9404打数、2543安打、504本塁打、1448打点、打率.270、266盗塁。
1998年TBSで野球解説者。2018年4月23日大腸がんで死去。
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こば たけし
古葉竹識
1936-2021 |
1975(昭和50)年、1979(昭和54)年、1980(昭和55)年、1984(昭和59)年優勝監督。
熊本県熊本市出身。専修大中退・日鉄鉱業二瀬。
遊撃手1963(昭和38)年首位打者争いを演じたこともあるが機動力を押すプレースタイルで1964(昭和39)年、1968(昭和43)年盗塁王。1970(昭和45)年南海ホークスに移籍、1971(昭和46)年引退、1972、1973(昭和48)年コーチ。1974(昭和49)年(広島に)コーチとして復帰。1975(昭和50)年15試合で帰国したジョー・ルーツ監督の後を継いで5月から監督に就任、球団創立初優勝を決めた。その後1979、1980、1984リーグ優勝・日本一。1985(昭和60)年勇退。1987-1989(平成元)年に横浜大洋の監督。1999(平成11)年野球殿堂入り。
1501試合、1369安打、44本塁打、334打点、打率.252、263盗塁
2003(平成15)年広島市長選に出馬、落選。2004(平成16)年自民党より比例代表で第20回参議院議員通常選挙に出馬、落選。2008年東京国際大学監督。2021年11月12日心不全で死去。
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しま しげのぶ
嶋重宣
(1976- ) |
プロ野球選手。
埼玉県上福岡市(現:ふじみ野市)生まれ。東北高卒業。
1994年広島東洋カープドラフト2位・投手として入団。2004年セントラルリーグ首位打者獲得。
2012年西武ライオンズへトレードで。2013年二軍守備走塁兼打撃コーチ。2021年三郡野手コーチ。
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つだ つねみ
津田恒実
1960 - 1993 |
元プロ野球選手。
山口県出身。南陽工業高卒。「恒美」旧名。愛称「ツネゴン」。直球勝負人呼んで「炎のストッパー」。
ノンプロの協和発酵を経て、1981(昭和56)年ドラフト1位で広島東洋カープ入団。1年目1982(昭和58)年先発投手11勝6敗球団初の新人王。1986(昭和61)年抑え投手でカムバック賞、チーム5度目のセ・リーグ制覇に貢献。1989(平成元)年12勝5敗28セーブ最優秀救援投手。1990(平成2)年シーズン終了後から身体変調訴える。1991(平成3)年4月14日読売戦登板(9球でマウンドを降り)敗戦投手、生涯最後の登板。1993(平成5)年7月20日32歳悪性脳腫瘍で死去。通算成績49勝41敗90セーブ
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まえだ けんた
前田健太
(1988- ) |
プロ野球選手。
大阪府泉北郡忠岡町生まれ。PL学園高等学校卒業。
2007年(広島東洋カープドラフト1位)投手入団。
2016年ロサンジェルス・ドジャース。2020年ツインズ。
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まつだ こうへい
松田 耕平
1922-2002 |
東洋工業第3代目社長。広島東洋カープオーナー。広島県出身。慶応義塾大学卒業。
1970(昭和45)年父・恒次死去後、東洋工業3代目社長就任。当時ロータリーエンジンこそマツダの活路と信じた耕平は、主力車種だったファミリア、ルーチェ、カペラなどにロータリーエンジンを搭載したが、1973(昭和48)年オイルショックによる省エネルギー化への風潮に、「ガソリンをがぶ飲みする」と揶揄されたロータリーエンジンは敬遠され、マツダ車のシェア低下。1977(昭和52)年大蔵省銀行局や通産省の介入及びメインバンク・住友銀行の指導で代表権がない会長に退く。
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やまもとこうじ
山本浩二
(1946- ) |
1991(平成3)年優勝監督。広島県廿日市市出身。法政大学。
1968(昭和43)年ドラフト1位で入団。1975(昭和50)年年4番で30本塁打。同年首位打者、MVPにも輝きチームの初優勝に貢献。1977(昭和52)年から5年連続40本塁打を記録し、1978(昭和53)年、1980、1981、1983(昭和58)年と4度の本塁打王。打点王にも3度輝くなど衣笠祥雄と共にカープ黄金時代を築いた。1984(昭和59)年より打撃コーチ兼任。1986(昭和61)年リーグ優勝を花道に引退。
引退後1989(平成元)年監督に就任、1991(平成3)年リーグ優勝。1993(平成5)年年成績不振により辞任。2001(平成13)年監督に復帰した。2005(平成17)年シーズン終了後成績不振で辞任。
2284試合、8052打数、2339安打、536本塁打、1475打点、打率.290、231盗塁
「2008(平成20)年1月11日(日本)野球体育博物館の競技者、特別両表彰委員会は競技者として山本浩二の殿堂入りを発表した」事をTVで新聞報道で知りましたので追記しました。
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(カープ関係者)
野球殿堂入り |
広島(東洋)カープ在籍者及関係者で野球殿堂入りした人たちを報道で知りましたので編集します。
石本秀一(1972)、小鶴誠(1980)、白石勝巳(1985)、別当薫(1988)、広岡達朗(1992)、衣笠祥雄(1996)、古葉竹識(1999)、根本陸夫(2001)、長谷川良平(特別表彰:2001)、山内一弘(2002)、上田利治(2003)、関根潤三(2003)、松田耕平(特別表彰:2003)、山本浩二(2008)の14人になったそうです。
津田恒実(2012)、北別府学(2012)、大野豊(2013)、外木場義郎(エキスパート部門:2013) |
13.02.25追記 08.01.12編集 |
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ジョー・ルーツ
1925-2008 |
1975(昭和50)年(優勝)監督。米国。
1972(昭和47)年インディアンス・コーチ時代アリゾナキャンプで広島ナインを指導。1973(昭和48)年打撃コーチとして来日、1975(昭和50)年監督に就任。同(1975)年4月27日阪神戦球審のボール判定を不服としたトラブルを起こし、退団する。通算成績は6勝8敗1分。2008(平成20)年10月20日死去されました。
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