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広島市中区基町の中央公園ひろばに建立されている「加藤友三郎像」です。
※題字は、森井一幸で、像の作者は、吉田正浪です。
※加藤友三郎功績碑には、内閣総理大臣・加藤友三郎の国際協調による世界平和の具現を称え、没後85周年にあたり銅像を復元したとあります。 |
加藤友三郎は、文久元(1861)年2月22日、広島藩士加藤七郎兵衛の三男として(現在の中区)大手町で生まれました。藩校、海軍兵学校などに学び海軍軍人となり、その後海軍次官、海軍大臣などを務めました。
第一次世界大戦後、わが国は軍備増強を図り、軍備の再編を進めたため国家予算に占める軍事費が異常な事態となり財政が破綻し、軍事費の削減を迫られていました。欧米諸国も同様な状態に至り、国際世論も軍備の縮小が叫ばれる情勢でした。
このような状況から大正10(1921)年11月から翌(1922)年2月まで米国・ワシントンにおいて主要9ヶ国(日・英・米・仏・伊・中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガル)による「ワシントン会議(国際軍事会議)」が開催され、加藤友三郎はこの会議に首席全権として出席、米が示した艦艇保有比率、英:米:日:仏:伊がそれぞれ、5:5:3:1.75:1.75の提案を当時の国際情勢、国益を踏まえ国際協調の観点から妥当な線と判断し、軍部の強い反対を抑え諸条約に調印しました。
軍部強硬派には「国防は軍人の専有物にあらず。
戦争もまた軍人にてなし得べきものにあらず。 |
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平成20(2008)年8月24日
加藤友三郎銅像復元委員会会長・碓井静照 |
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国防は国力に相応ずる武力を備うると同時に、国力を涵養(かんよう≒少しずつ養い育てること)し、一方外交手段により戦争を避くることが、目下の時勢において国防の本義なりと信ず。」と述べています。
大正11(1922)年6月第21代内閣総理大臣に就任、軍事予算の削減、陸海軍兵員艦艇縮減、シベリア撤兵など英断を下し隣国と強調する諸政策を断行しました。
総理大臣在任中の大正12(1923)年8月24日病死。 |
※上記文は、「加藤友三郎功績碑」碑文のままではありません |
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(はちはちかんたい)
八八艦隊: |
米国を仮想敵とし、戦艦八隻、巡洋戦艦八隻を主力とする、旧日本海軍の建艦計画。
1920(大正9)年予算措置が講じられたが、翌(1921)年のワシントン軍縮会議の結果中止となった。 |
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ワシントン会議に全権代表として臨んだ加藤友三郎を、各国の記者はその痩身から「ロウソク」と呼んで侮っていたが、海軍の代表であり八八艦隊計画の推進者でもあったので、米国提案の「五五三艦隊案」を骨子とする軍備縮小にむしろ積極的に賛成した事が「好戦国日本」の悪印象を一時的ながら払拭し、彼を一転して「危機の世界を明るく照らす偉大なロウソク」と称賛したそうです。
確かに当時の好戦的な国家観からすると軍縮という英断を下した功績はあったのでしょうが、軍都・廣島の中心であった地・基町(現在の中央公園)に平服姿とはいえ軍人だった人物の銅像を今日(こんにち)建立したことには、個人的には強い疑問を持ち、建立するなら生誕の地に建立するのが妥当だったのではと思っています。 |
2015年久しぶりに撮影しましたので、掲載画像も見直し、この頁を更新しました。 |
16.03.07.更新 08.10.28裕・記編集 |