「漢委奴國王金印發光之處」碑
  福岡市東区志賀島字古戸(の金印公園)に建立されている「漢委奴国王金印発光之処・碑」です。
※当初金印発光推定地点に1922(大正11)年3月漢委奴国王金印発光之処・碑が建立されています。
※題の揮毫者は黒田長成で、武谷水城撰によるものです。
(※金印公園は、1975(昭和50)年供用開始ですので、この発光之処・碑が先に建立されています。)
正面: 漢委奴國王金印發光之處
  從二位勲一等侯爵黒田長成書
裏面: 天明四年二月二十三日志賀島村ノ農甚兵衛■田ノ溝ヲ修ス地下ニ石垣アリ金印一■■・・・
・・爲サントノ議アリ印ハ漢委奴国王ト綬ス亀井南冥観テ百金ニ換ヘント・・・・・・・
・・・・以テ其ノ後漢書載スル所ノ光武帝皇元二年委奴國王ニ貽リシ金印ナルコト・
・・・・・・・・・・・・・・・近年學■委ノ奴國ト繹スルニ至レリ是レ綬リ所謂倭國ト
・・・・・・・・・・・・博多ヲ中心トスル一地域ナリ蓋シ當時皇化未タ・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一千七百三十八年今ニ迨ンテス百三十
・・・・・・・・・黒田氏ノ所蔵ニ・・・・
・・・・・・・
大正十一年三月 従四位勲三等武谷水城撰 勲七等松浦到書
*わたしは、裏面碑文をほとんど読めませんでしたが、わかる処だけ書き出してみました。
福岡市博物館の公開資料やWikipediaを参照すると
『1784(天明4)年2月23日〔今日の暦では4月12日〕(筑前国)志賀島村で百姓甚兵衛が水田の溝を修理していたところ、二人持ちの大石が現れ、これを掘り起こすと金印が出てきたと伝えられています。
当時福岡藩藩校甘棠(かんとう)館の祭酒(校長)であった亀井南冥はこれを鑑定し、実物であることを主張して「金印弁」を著しています。その後、金印は黒田家所蔵となりました。
1978(昭和53)年黒田家から福岡市に寄贈されました。
金印出土場所について、
『志賀島(現・福岡市東区)の島内であるが、正確な場所は明らかとなっていません。
1914(大正3)年九州帝国大学の中山平次郎が現地踏査と福岡藩主黒田家の古記録及び各種の資料から、その出土地点を志賀島東南部と推定しました。
その推定地点には1922(大正11)年3月武谷水城撰による「漢委奴國王金印発光之処」記念碑が建立されました。
その後、1958(昭和33)年と1959(昭和34)年の2回にわたり、森貞次郎(1910-1998)、乙益重隆(1919-1991)、渡辺正気らによって志賀島全土の学術調査が行われ、金印出土地点は、中山の推定地点よりも北方の、叶ノ浜が適しているとの見解が提出されました。
ただし、志賀島には金印以外の当時代を比定できる出土品が一切なく、志賀海神社に祀られる綿津見三神は漢ではなく新羅との交通要衝の神であり直接の繋路はまだ見出されていません。
1973(昭和48)年及び1974(昭和49)年にも福岡市教育委員会と九州大学による金印出土推定地の発掘調査が行われ、現在は出土地付近は「金印公園」として整備されています。』
 
出土地について文献には「叶崎(かなのさき)」と「叶ノ浜」の二通りの記述が登場します。ここにいう「叶崎」は「叶ノ浜」に含まれる海に突き出た部分と考えられます。
金印の出土地点を最初に推定したのは病理学者でもあった九州考古学の草分け中山平次郎で、大正時代の初めのことです。
その根拠となったのは古老の記憶と志賀海神社宮司の安雲
(あずみ)家に伝わる“筑前国続風土記附録”の付絵図の描写によるものでした。
現在の金印公園付近は昭和20年代の写真を見ると金印碑前の道路はまだ舗装されていません。注目すべきは海岸に沿って細長い田んぼが二枚写っていることです。

昭和40年代ですが福岡市資料借用加筆
現在、その箇所は浸食をうけて波のなかですが、もともと安曇家の絵図を裏付けるように田んぼがあったことは確かです。
金印の出土地は中山平次郎が最初推定した場所で石碑建立場所でしたが、その後修正し、海に向かって右斜め前に行った所としたようです。
(くろだ ながしげ)
黒田長成:
(1867-1939)
政治家、侯爵。筑前国秋月出身。ケンブリッジ大学キングス・カレッジ卒業。
1878明治11)年家督を継ぎ、1884(明治17)年侯爵。1884年〜1889(明治22)年ケンブリッジ大学に遊学。帰国後式部官となったが、1890(明治23)年辞任。1892(明治25)年貴族院議員、1904(明治37)年副議長就任。1924(大正13)年枢密顧問官。宗秩寮審議官、議定官などを兼任。
(たけや みずき)
武谷水城:
(1853-1939)
陸軍軍医、郷土史研究家。筑前国御笠郡水城村出身。旧陸軍軍医学校卒業。
1896(明治29)年3月1等軍医正となり広島衛戍病院長。1906(明治39)年3月陸軍軍医監、予備役編入。
1909(明治42)年4月福岡市に戻り。のち郷土史研究に尽力尽。1913(大正2)年5月「筑紫史談会」を創設、会誌「筑紫史談」を発行。1916(大正5)年2月福岡県教育会会長など。
(かめい なんめい)
亀井南冥:
(1743-1814)
儒学者、医者。姪浜村出身。名は魯。字は道載。通称は主水。別号:信天翁、狂念居士。
徂徠(そらい)学派の僧大潮(1676-1768)に儒学を、のち大坂で永富独嘯庵(どくしょうあん:1732-1766)に医学を学ぶ。
筑前福岡藩儒医にとりたてられる。1783(天明3)年甘棠(かんとう)館の総受持(総裁)。朱子学派の東学問所(修猷館)と対立し、寛政異学の禁の余波をうけ、1792(寛政4)年失脚。門下に広瀬淡窓(1782-1856)ら。著作に「金印弁」(金印の由来を説明)、「論語語由」「肥後物語」など。
(なかやま へいじろう)
中山平次郎:
(1871-1956)
病理学者、考古学者。京都府上京生まれ。東京帝国大学医科大学卒業。
1906(明治39)年京都帝大福岡医科大学教授就任。病理学を講じ、かたわら北九州を中心とする弥生式土器文化の研究に没頭。1931(昭和6)年教授を辞任、名誉教授。
この間、1912(大正元)年「福岡付近の史跡」を福岡日日新聞(西日本新聞の前身)に連載(30回)。考古学界では野の人であり、「考古学雑誌」に論文掲載は1914(大正3)年実現、(1915大正4)年同誌に鴻臚館平和台説を掲載するなど、九州考古学界が夜明け前のころから先見の明を発揮、「九州北部に於ける先史原史両時代中間期間の遺物に就いて(1)〜(4)」(考古学雑誌)など200余編の論文を残した。福岡県史蹟名勝天然記念物調査委員。著書に「古代乃博多」など。
光武帝:
(BC5~AD57)
中国後漢の初代皇帝(在位25~57)廟号は世祖。22年王莽オウモウを討ち、25年即位して漢室を復興した。
赤眉
せきびの乱を平定、36年中国を統一。
儒教を尊重、礼教主義による政治を行い、王室の基礎を確立した。
2002年リニュアルされる前の金印公園の頁を編集する時、漠然とここ金印公園の何処から金印が出土したのだろうかと考えていました。
やはり、発光之処・碑が建立されているところあのだろうと2008年更新する時考えていました。
コロナ禍の2021年息子たちと久しぶりに訪ねた金印公園が、リニュアルされていました。
この頁では、金印出土の場所を福岡市博物館資料やWikipediaを参照して考えてみました。
40余年前結婚の許しを頂いた後、妻の実家から歩いて訪ねたこの金印公園。いまにして思うと、開園した1975(昭和50)年だったのです。
今回頁を編集しながら、設置の説明板を読んでみると、金印公園に整備される前のこの場所のことなど(公園前の道路海側にも田圃や畑があったということなど)色々と尋ねてみたいことが在ったな~といまになって思いながらこの頁などを編集していったのです。
22.10.16.裕・記編集

04.04.25撮影
福岡市東区志賀島古戸 金印公園  (2004年当時はさざえ売りの店が出ていました) 

04.04.25撮影
「漢委奴國王金印發光之處」碑 金印公園前道路から

21.10.17.撮影 
福岡市東区志賀島古戸    「漢委奴國王金印發光之處」碑

21.10.17.撮影 

21.10.17.撮影  
金印発光之処・碑 正面 裏面

21.10.17.撮影 
金印出土場所は、金印発光之処・碑の右斜め前(いまは海)の所と考えられています



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