(忌宮神社の)鬼石

  山口県下関市長府宮の内の忌宮神社に安置されている「鬼石」です。
数方庭(すほうてい)の由来と鬼石
第14代仲哀天皇は、九州の熊襲の叛乱を平定のため西下、ここ穴門(長門)豊浦(長府)に仮の皇居を興されましたが、仲哀天皇7年旧暦7月7日朝鮮の新羅国・塵輪(じんりん)が熊襲を扇動し豊浦宮に攻寄せました。
皇軍は奮戦しましたが宮内を守護する阿部高麿・助麿の兄弟まで討死した事で、天皇は憤られ、自ら弓矢をとって塵輪を射倒され、賊軍は退散しました。
皇軍は矛をかざし旗を振りながら、塵輪の屍の周りを踊ったのが数方庭(8月7日〜13日まで毎夜行われるお祭)の起源と伝えられています。
塵輪の顔が鬼のようであったことからその首を埋めて覆った石を鬼石と呼んでいます。
(くまそ)
熊襲:
熊曽:
1)上代(じょうだい;古代)の九州南部の地域名。
2)記紀などにみえる種族。九州南部に勢力を張り、勇猛で大和朝廷に反抗したが、
  景行天皇(第12代)の皇子日本武尊(やまとたけるのみこと)に討たれたとされる。
忌宮神社で参拝しようとして社殿へ行く石段の前にあったこの鬼石という説明板に目がいき、参拝前にみました。
鬼石とあることから、鬼の形をした石かなと思い、柵の中をのぞきました。降る雨がたまっていましたが形は普通の石のようにおもいました。説明板をみると新羅国・塵輪という敵将を討って、その屍の上に石を乗せたということで、塵輪の顔が鬼のようだった事に由来している事を知りました。
 12.01.21裕・記編集

09.01.29撮影
山口県下関市長府宮の内1-18   忌宮神社

09.01.29撮影

09.01.29撮影



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「長府」編


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