しこくかんたい
四国艦隊下関
砲撃事件 |
元治元(1864)年8月、英・仏・米・蘭4ヶ国連合艦隊が長州藩の下関砲台を攻撃した事件。前(1863)年の長州藩の攘夷(じょうい)決行の報復措置として行われた。
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しちきょうおち
七卿落ち |
文久3(1863)年8月18日の政変で、公武合体派に敗れた尊王攘夷派の公卿、三条実美(さねとみ:1837-1891)・三条西季知(すえとも:1811-1880)・東久世通禧(ひがしくぜみちとみ:1834-1912)・壬生基修(みぶもとなが:1835-1906)・四条隆謌(たかうた:1828-1898)・錦小路頼徳(にしきこうじよりとみ::1835-1864)・沢宣嘉(のぶよし:1835-1873)の7名が、再挙を図るため京都を脱出、長州藩に落ちのびた事件。 |
はまぐりごもん
蛤御門の変 |
元治元(1864)年長州藩が京都に出兵し、会津・薩摩などの藩兵と蛤御門付近で戦って敗れた事件。前(1863)年8月の政変で失った長州藩の勢力回復を図ったもの。これを機に、江戸幕府の第一次長州征伐が行われた。禁門の変。 |
ちょうしゅう
せいばつ
長州征伐 |
幕末、江戸幕府が二度にわたり、長州藩を攻めた戦い。
幕府は蛤御門の変を理由に、元治年(1864)年長州へ出兵したが、外国の連合艦隊の下関来襲で危機に立っていた長州藩が恭順したので戦わずに撤兵。のち、長州藩首脳のこの処置に不満を抱いた高杉晋作らの強硬派が恭順派を一掃、幕府に対抗する姿勢を示した。
幕府は慶応2(1866)年長州再征を行ったが敗退し、撤兵。以後、幕府の権威は急速に失われた。 |