維新発祥之地・碑

  山口県下関市長府中浜町の建立されている「維新発祥之地・碑」です。
維新発祥の地記念碑について  昭和60(1985)年3月 長府観光協会  長府自治連合会
城下町長府には、西暦193年、仲哀天皇、神功皇后により豊浦の宮が築かれた由来から、忌宮(いみのみや)神社が創建され、数々の神事が継承されています。
大化2(646)年には、長門の国府として長府と呼ばれるようになり、その後長門鋳銭司や国分寺が設置され繁栄を続けてきましたが中世には長門守護所、長門探題も設けられ、政治的、軍事的拠点として重要な役割を果たしてきました。
慶長5(1600)年、関ヶ原の役後、毛利秀元が長府5万石の城主として入府以来、武家屋敷の町として平和な藩政時代を過してきましたが、幕末に到り俄然、倒幕拠点の地として目覚め脚光を浴びました。
文久、元治の馬関攘夷戦、七卿の来府、蛤御門の変、長州征伐と長州藩は激動と苦難の道を辿ることになりますが、元治元(1864)年12月15日、功山寺における高杉晋作(1839-1867)、回天の挙兵により歴史は大きく転回し、やがて明治維新を迎える事になります。
思うに長府は、古来から西日本における枢要の地として、広く維新の偉業を繰返してきましたが、特に高杉晋作の回天義挙により、明治維新発祥の地として世に高く評価され伝承されてきました。
また付言すれば、世界的名声を博した狩野芳崖(1828-1888)、乃木大将(1849-1912)の出身地でもあります。
昭和60(1985)年の初春にあたり、今ここに地元の有志相集い、史跡、文化財を伝えるため、維新発祥の記念碑を建立し、城下町長府の未来への発展を切に願うものです。
しこくかんたい
四国艦隊下関
   砲撃事件
元治元(1864)年8月、英・仏・米・蘭4ヶ国連合艦隊が長州藩の下関砲台を攻撃した事件。前(1863)年の長州藩の攘夷(じょうい)決行の報復措置として行われた。
しちきょうおち
七卿落ち
文久3(1863)年8月18日の政変で、公武合体派に敗れた尊王攘夷派の公卿、三条実美(さねとみ:1837-1891)・三条西季知(すえとも:1811-1880)・東久世通禧(ひがしくぜみちとみ:1834-1912)・壬生基修(みぶもとなが:1835-1906)・四条隆謌(たかうた:1828-1898)・錦小路頼徳(にしきこうじよりとみ::1835-1864)・沢宣嘉(のぶよし:1835-1873)の7名が、再挙を図るため京都を脱出、長州藩に落ちのびた事件。
はまぐりごもん
蛤御門の変
元治元(1864)年長州藩が京都に出兵し、会津・薩摩などの藩兵と蛤御門付近で戦って敗れた事件。前(1863)年8月の政変で失った長州藩の勢力回復を図ったもの。これを機に、江戸幕府の第一次長州征伐が行われた。禁門の変。
ちょうしゅう
  せいばつ

長州征伐
幕末、江戸幕府が二度にわたり、長州藩を攻めた戦い。
幕府は蛤御門の変を理由に、元治年(1864)年長州へ出兵したが、外国の連合艦隊の下関来襲で危機に立っていた長州藩が恭順したので戦わずに撤兵。のち、長州藩首脳のこの処置に不満を抱いた高杉晋作らの強硬派が恭順派を一掃、幕府に対抗する姿勢を示した。
幕府は慶応2(1866)年長州再征を行ったが敗退し、撤兵。以後、幕府の権威は急速に失われた。
忌宮神社を参拝した後、交流ウォーク片岡会長が、近くにこの維新発祥之地碑が建立されていますよといわれたので、見に来たのです。長府という地が維新発祥之地ということで、この碑の建立場所附近で何か明治維新に繋がる事件が起きたということではないようでした。
碑の後ろの『ふる里に誇りをもとう、長府っ子』という標語に目がいき、長府だけではないな〜〜、長州戦争時代幕府側であった広島であってもそうだし全国的にいまの子どもたちに云ってやる言葉だなと(わたしは)思いました。
12.01.02裕・記編集

09.01.29撮影
山口県下関市長府中浜町3

09.01.29撮影

09.01.29撮影

09.01.29撮影



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