(乃木神社) 二〇三高地の松(遺木)、唱歌・水師営の会見

  下関市長府宮の内町の乃木神社境内に展示されている「二〇三高地の松(遺木)」です。
※また、「水師営の会見・歌碑」をみたのでここで取り上げています。   
二〇三高地の松(遺木)
二〇三高地の松  戦前旅順より乃木将軍ゆかりの地より記念として持ち帰ったもの。
本体は既に枯れてしまったようで、根際に二世?が植栽されていました。
水師営(すいしえい)の会見
中国、大連市旅順の北西にある地名。清朝海軍の兵営のあった所。
日露戦争の際、1905(明治38)年1月5日乃木大将とステッセル(ステッセリ)将軍の会見が行われ、旅順軍港攻防戦の停戦条約が15日締結された。
にひゃくさん
      こうち

二百三高地
1)中国遼寧省大連市の旅順にある標高203mの高地。日露戦争の激戦地。
2)女性の束髪の一。二百三高地髷。
  二百三高地にちなんでできた髪形で、戦勝をたたえて1905(明治38)年ごろ流行した。
  赤熊(しゃぐま)を入れてふくらませた髪を高く結い上げ、頭頂を突起させたもの。
* 尋常小学唱歌は、1911(明治44)年から1914(大正3)年にかけて文部省が編纂した尋常小学校用の唱歌 (教科)の教科書全6冊があり、1学年ごとの収録曲は20曲。
「水師営の会見」は、第五学年15番目にあるそうです。
(長府)乃木神社境内を巡っている時に、「二〇三高地の松」石碑をみました。その後ろに既に枯れて伸びた枝が切られ、小さな遺木となっている松をみました。その根際に(おそらく)203高地の松の2世が植栽されていましたので、撮影しました。
少し行くと「唱歌・水師営の会見」歌碑が建立されていました。
歌詞をみると、旅順開城約成・・・とありましたので、日露戦争当時203高地を奪い、露西亜軍降伏に繋がった歴史を少しばかり知っていましたが、その場所が水師営であったこと、その時の会見が小学校唱歌になっていることは知らなかったので、帰宅後調べこの頁を編集しました。
(わたしは)音符が読めませんので歌詞だけを撮影画像から読んでみました。
また、境内に宝物館があり、見学した時に、203高地の模型が展示してありましたので、この頁を編集する時203高地の参考になるかと思い撮影させていただきました。
2009年12月、広島東照宮で「二葉の里に桜の並木を復活させる会」が展示していた昭和初期頃のパネルに‘二百三高地まげ’の女性が写っているという説明板に記述があり、そういう髪型が流行った事を知ったので、この頁を編集する時に参考にできるなと撮影していたのです。
12.01.29裕・記編集

09.01.29撮影
山口県下関市長府宮の内町3-8  乃木神社境内の二〇三高地の松(遺木)

09.01.29撮影
宝物館内に展示 203高地模型  (非常口の表示が乃木大将肖像額に写っています)
「水師営の会見」   

09.01.29撮影
作詞:佐々木信綱(1872-1963) 作曲:岡野貞一(1878-1941)
1) 旅順開城約成(やくな)りて 敵の将軍ステッセル 乃木大将と会見の 所はいずこ 水師営
2) 庭に一本(ひともと)棗(なつめ)の木 弾丸あともいちじるく くずれ残れる民屋(みんおく)に今ぞ相(あい)見る 二将軍
3) 乃木大将は おごそかに 御(み)めぐみ深き大君(おおぎみ)の 大みことのり伝(つと)うれば 彼かしこみて謝しまつる
4) 昨日の敵は 今日の友 語ることばもうちとけて 我はたたえつ かの防備 かれは称えつ わが武勇
5) かたち正して言い出でぬ 「此の方面の戦闘に 二子を失い給(たま)いつる 閣下の心如何にぞ」と
6) 「二人の我が子それぞれに 死所を得たるを喜べり これぞ武門の面目(めんぼく)」と 大将答(こたえ)力あり
7) 両将昼食(ひるげ)共にして なおもつきせぬ物語 「我に愛する良馬(りょうば)あり 今日の記念に献ずべし」
8) 「厚意謝するに余りあり 軍のおきてに従いて 他日我が手に受領せば ながくいたわり養わん」
9) 「さらば」と握手ねんごろに 別れて行くや右左 砲音(つつおと)絶えし砲台に ひらめき立てり 日の御旗(みはた)



「山口ぶらり散歩」編



(広島ぶらり散歩へ)
(長府)乃木神社
乃木将軍御夫妻銅像
乃木旧邸
  台柄、手押しポンプ
さざれ石
二〇三高地の松(遺木)


「長府」編


inserted by FC2 system