(覚苑寺)生田蝶介歌碑

  山口県下関市長府安養寺の覚苑寺に建立されている「生田蝶介歌碑」です。
  碑面刻歌
ふるさとの赤松山のおもひでの松の匂ひをしのぶ秋の日
生田蝶介先生は、明治二十二(1889)年五月二十六日山口県長府姥ケ懐に生る。若き日に上京、当時東洋一の博文館編集次長となり文芸興隆の基をなせり、先生の知遇ありて大成せし人に伊東深水、川口松太郎、岩田専太郎等あり。大正十三(1924)年五月短歌誌「吾妹(わぎも)」を創刊、主宰者として半世紀余、後進の指導にあたり、その教えを受けし門人数知れず、現代歌壇の発展に多大の貢献をなす。多くの作品は現代抒情短歌の本流として高く評価され、現在日本歌人クラブ名誉会員たり。その間、小説、作歌指導書、歌論、歌集等多くの著あり。若くして故郷を離れた先生は、望郷の念あつく母校豊浦小学校々歌を作詞せるほか、折にふれ故郷の歌を詠む。黄檗宗覚苑寺第二十四代進藤端堂老師は先生の叔父にあたり、当寺は先生少年時代の夢と詩情揺籃の地たり。その限りない業績を郷土にとどむるため、門人相謀り、先生の米寿を記念して、此処に碑をなすもの也。
撰文 白沢節人。昭和五十一(1976)年五月吉日
(いくたちょうすけ)
生田蝶介:

(1889-1976)
歌人。山口県下関市長府生まれ。13歳で京都の叔父の養子となる。早稲田大学英文科中退。
1909(明治42)年博文社に入社、編集者として『講談雑誌』を出版、雑誌に初めて短歌欄を設けた。1924(大正13)年短歌誌『吾妹』を創刊、歌人として大正・昭和期の歌壇に業績を残す。
短歌創作の心得を記した「吾妹歌憲」。歌集「渦潮」(大正11年)。「聖火燃ゆ」(昭和3年)など、短歌以外にも、小説、詩、評論と、幅広い文学活動を続けた。
ここ覚苑寺境内でみた生田蝶介歌碑でした。
雨も本降りになってきたようで、腕の問題もありますがもやった画像であるなといえるものでしかありませんがお許し願って置きます。碑に取り付けてある説明板も氏名と生年月日を読んだだけで、撮影しておれば後で、生田蝶介のことはわかるのでは思ったのです。だから、歌人・生田蝶介のことはこの頁を編集するいまになって僅かに知ったのです。
12.01.02裕・記編集

09.01.29撮影
山口県下関市長府安養寺3-3   覚苑寺

09.01.29撮影



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