ながとちゅうせんしょあと
長門鋳銭所跡

正面 史蹟 長門鑄錢所阯
側面 史蹟名勝天然記念物保存法ニ依リ
昭和四年十二月十七日文部大臣指定
昭和4年=1929年
側面 昭和八年九月建設 昭和8年=1933年
国指定史跡 「長門鋳銭所跡」 指定年月日:昭和4年12月17日  山口県教育委員会、下関市教育委員会
  長門鋳銭所は、奈良・平安時代に長門鋳銭司という機関が置かれ、銭貨の鋳造を行った工房跡です。
長門地区の西側を限る、准堤峰(標高176m)東南麓斜面に位置し、鋳銭峰や火除け道などの銭貨鋳造を物語る地名も残っています。現在の法輪山覚苑寺一帯の約14,000uが史跡として国の指定を受けています。
遺跡の発見は、江戸時代の寛永年間(1624-1643)に遡り、現在まで数度にわたる発掘や調査が行われています。これらにより、奈良時代の「和同開珎」や鋳型、坩堝、鞴の羽口などの銭貨鋳造用具のほか、銭貨鋳造に伴う副産物である銅滓等が多数出土し、古代銭貨鋳造の事実を明らかにしています。
「和同開珎」の鋳造は、和銅元(708)年催鋳銭使という官職が置かれ、始まりますが、長門鋳銭所は、天長2(825)年に廃止され、周防国(山口市鋳銭司)に移ったとされています。
「和同開珎」の鋳造記録が残る、近江国(滋賀県)・河内国(大阪府)・播磨国(兵庫県)などの鋳銭司のうち、工房の場所が特定できるのは、現在のところ長門国のみです。
これまでに史跡指定地内から出土した鋳范の破片(十二個)・鞴口の破片(四個)・坩堝の破片(三個)・和同開珎(一枚)が、昭和39(1964)年に国の重要文化財に指定され、下関市立長府博物館に寄託・展示されています。
山口県美祢市(秋吉台東南に隣接)の長登銅山は、銅を中心とした鉱物を産出した鉱山でした。
7世紀末ないし8世紀初頭と考えられる操業開始後、奈良時代から平安時代にかけて当時の律令国家も大きく関与した長門国直営の鉱山として銅と鉛を産出し、産出された銅や鉛は和同開珎など皇朝十二銭の鋳造や東大寺の大仏といった、国家的事業に用いられたと考えられています。
また長登銅山からは採掘や製錬の遺構などとともに、730年前後の木簡など貴重な出土品が多数発見されているそうです。
(長府)国分寺址・碑をみて、和同橋をみて、覚苑寺に来た時に、お寺の前に「長門鋳銭所跡」碑が建っており説明板が設置され、読むと、この辺りで、和同開珎を鋳銭していたというゆかりの土地ということを(わたしは)知りました。
周防鋳銭司跡のことは、以前山口市のJR四辻駅の近くで(短期間でしたが)仕事をしたことがあり、住所が鋳銭司(すぜんじ)という所で、周防鋳銭司跡があり奈良時代から平安時代にかけて鋳銭していたことを知り、当時コインを収集していましたので、仕事の合間に資料館を見学したことがあったのです。しかし通り一遍にしか見学していなかったのでしょう、ここ長府長門鋳銭所が前でそれから周防鋳銭司所になったことさえ知らなかったのです。 この「長門鋳銭所跡」碑、説明板をみてそうだったのかと思いました。
銅銭を造るには銅がなくてはとどうにもなりませんが、山口には当時、長登銅山があり、燃料となる薪の供給も不足することはないということからこの地が鋳銭所に選ばれたのでしょうね。
 12.02.02裕・記編集

09.01.29撮影
山口県下関市長府安養寺3-3  (覚苑寺境内)

09.01.29撮影

09.01.29撮影

09.01.29撮影



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