高杉晋作回天義挙之所・碑

  碑の解説
高杉晋作回天義挙之所 明治維新の策源地 正にこの地この所である 回天とは何の意か 天皇親政の古に復えすの意であろう 義挙とは何ぞ 義は正義の義であり忠義の義である この碑は高杉晋作(1839-1867)が明治の昭代をつくり出した地点を示す 否少なくもその主なる一人である 由来歴史は人を造るが 人また歴史を造りもする 高杉は歴史を造る人か 高杉のこの挙は 直ちに近代国家への進展を見なかったが たしかにその一道程を進めたものと言えよう
  横山健堂(1872-1943)
大正9(1920)年12月建立の「高杉晋作回天義挙之所」碑と格調高い解説を施した副碑には揮毫・撰文の署名が見られないがどちらも論客「黒頭巾」こと横山健堂の筆によリます。
明治5(1872)年萩に生まれた彼は東京帝国大学を卒業後、読売・毎日両新聞記者として活躍、殊に人物評論のジャンルに新境地を開いたことで知られます。ふるさとのためには国宝功山寺仏殿の天井にシャクナゲの絵を丸山晩霞(1867-1942)に描かせたり、東行庵高杉晋作墓の史跡指定に奔走、自ら海上アルプスと命名した青海島を全国に広めるなどの功績も多い、昭和18(1943)年12月24日病没。
   平成八(1996)年三月三十一日
        城下町長府まちづくり協議会 長府観光協会
回天義挙、功山寺挙兵(こうざんじきょへい)
元治元年12月15日(1865年1月12日)に高杉晋作(1839-1867)が、長州藩保守(俗論)派打倒のために功山寺で起こしたクーデター。これに端を発する長州藩内の一連の紛争を元治の内乱ともいいます。
功山寺に集結したのは伊藤俊輔(博文:1841-1909)率いる力士隊と石川小五郎(河瀬真孝:1840-1919)率いる遊撃隊のわずか84人だけだったそうです。
死を覚悟した高杉晋作は白石正一郎(商人:1812-1880)の末弟である大庭伝七に遺書を託して、功山寺の三条実美(公卿:1837-1891)ら五卿に「是よりは長州男児の腕前お目に懸け申すべく」と挨拶、今回の挙兵が私利私欲からなるものでないと断った上で、下関新地会所を襲撃し占拠しました。そして18名からなる決死隊で三田尻の海軍局に攻め入ると、「丙辰丸」など軍艦3隻を無血にて奪取しました。
かいてん
回天
『天をめぐらす意』
時勢を一変させること。衰えた勢いを盛り返すこと。
ぎきょ
義挙
正義のために起こす企てや行動。
帰りの新幹線の時間が決まっていましたので、ここ功山寺や長府博物館を拝観する時間をとることが出来ず、門前のこの「高杉晋作回天義挙之所」碑をみただけでしたが、次の仲哀天皇御殯斂地を訪ねるにはちょっぴり遠回りでしたが、この高杉晋作回天義挙之所・碑を雨の中ではありましたが、訪ねたのは(自己満足でしょうが)よかったと思いました。
12.02.11裕・記編集

09.01.29撮影
山口県下関市長府川端1-2-3  (功山寺山門前)

09.01.29撮影

09.01.29撮影
高杉晋作回天義挙之所 大正9(1920)年12月24日建立



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