ちゅうあいてんのう ごひんれんち
仲哀天皇御殯斂地

  下関市長府侍町に築かれている「仲哀天皇御殯斂地」です。
仲哀天皇(第14代)が九州熊襲平定のために西下、穴門(長門)豊浦宮を興し七年政務をとられ、さらに筑紫(現在・福岡県)の香椎に進出されたが一年で崩御、神功皇后は喪を秘し、武内宿祢に御遺骸を奉じて豊浦宮に帰らしめ、現在の長府侍町土肥山に殯斂せられました。
古文書には聖跡の地、又は御陵と記され、明治以後、御殯斂地と指定され、宮内省(現在・宮内庁)の所轄となり、陵の下方に安良、高良二臣の塚、本堂前小丘に武内宿祢塚があり殉死のしるしと思われるそうです。
戦後は、仲哀天皇の実在性*には疑問が出されていますが、大阪府藤井寺市の恵我長野西陵(えがのながののにしのみささぎ)が仲哀帝の本陵とされているそうです。
仲哀天皇(?-200)は、仲哀天皇8(199)年熊襲討伐のため神功皇后(170-269)と共に筑紫に赴き神懸りした神功皇后から住吉大神のお告げを受けたと聞かれ、 それは西海の宝の国(新羅のこと)を授けるという神託ということでした。
しかし、仲哀天皇は、これを信じず住吉大神を非難しました。そのため神の怒りに触れ、仲哀天皇は翌(200)年2月急に崩じてしまいました。遺体は武内宿禰により海路穴門を通って豊浦宮で殯されました。(天書紀では、熊襲の矢が当たったとしています)。
『古事記』に「凡そ帯中日津子天皇の御年52歳。壬戌の年の六月十一日に崩りましき」。『日本書紀』も52歳としていますが、これから逆算すると、天皇は父・日本武尊(やまとたける:72年頃-113頃)の薨後36年目に生まれたこととなり、矛盾しています。
(かりもがり)
殯:
「もがり(殯)」に同じ。
〔補説〕 「もがり」に「仮」の意が含まれていることが忘れられて生じた語。
死人を埋葬するに先だって、しばらくの間、遺体を棺に納めてとむらうこと。
(もがり)
殯:
〔「も(喪)あ(上)がり」の音変化か〕
「荒城(あらき)=貴人の死体を、墳墓が完成するまで仮に納めて置いたこと。また、その所。」に同じ
(れん)
斂:
3)死体を棺に収める。例「斂葬」
1) 引きしめ集める。取り入れる。
(ひんれん)
殯斂:
死者を埋葬するまで、棺に納めてしばらく安置すること。かりもがり。
日頼寺の本堂前で手を合わせた後、仲哀天皇御殯斂地は何処かなとわからなかったのです。
誰かに尋ねなくてはとなったのですが、雨で誰もお参りに来ているわけでもなく、どうしようと思った時に、根際に「もみじ幼稚園」がありました。尋ねようと不審者の如く職員室をみた時、会議中のようでしたが一人の先生と目が合い、窓を開けて下さったので「仲哀天皇の陵を見学に来たのですがわからないので教えていただけませんか」と声を掛けました。教えていただかなければ雨の中でもありましたので、見学することもなく、帰路についていただろうと思いました。
12.02.13裕・記編集

09.01.29撮影
山口県下関市長府侍町1

09.01.29撮影
仲哀天皇御殯斂地・・・宮内庁とかすかに読めるの標識が建っています(が文章部分は不鮮明になっています)

09.01.29撮影

09.01.29撮影

09.01.29撮影

09.01.29撮影



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