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竹原市は、
古くから賀茂川流域を中心とした河系集落と瀬戸内沿岸に点在する臨海集落があったことが知られています。
律令時代竹原一帯は都宇郷(つうごう)と呼ばれ、旧山陽道が通っており「都宇駅」がおかれ交通の要所となっていました。
平安時代には京都・下賀茂神社の荘園となり「竹原」の地名が誕生しました。
鎌倉時代には竹原小早川家が創設されて繁栄を続け、江戸時代には塩浜が開設され、海運による全国的な取引が行われていましたので、文教の熱も高まり頼春水・春風・杏坪などをはじめとする多くの文人、学者が生まれたことは、いまも残る街並みの雰囲気と共に「安芸の小京都・竹原」と云われる由縁なのでしょう。 |
竹原市の区域には、1889(明治32)年町村制施行当時下市村、下野村、東野村、大乗村、荘野村、田万里村、吉名村、賀永村、忠海町の9町村が設置されていました。同(1889)年4月下市村が町制施行で竹原町と改称。1935(昭和10)年国鉄呉線の開通、1937(昭和12)年竹原駅そばに三井金属鉱業が操業したことなどにより都市化してきました。
戦後、1952(昭和27)年に竹原町+下野村で新たな竹原町発足。
1954(昭和29)年東野村、大乗村、南方村の一部を編入。
1955(昭和30)年竹原町+荘野村+田万里村が合併。1956(昭和31)年 9月吉名村、賀永村大字仁賀の区域を竹原町に編入。1958(昭和33)年11月
3日忠海町と合併し、併せて市制を施行、竹原市として現在に至っています。
(平成の大合併広島県の試案では安芸津町との合併の方向が出されていましたが、安芸津町は東広島市と合併しました) |
昔、仕事の関係で、竹原には何度か来たことはありますが、それは観光ではなかったのです。
今(2009年6月)回、広島ぶらり散歩「頼山陽関連」編の関連で、頼山陽(1780-1832)のおじいさん・頼惟清の旧宅が残され、頼山陽像、頼山陽詩碑が建立されていたりと頼家ゆかりのこの地を訪ねなくてはと梅雨時で雨模様でしたが出かけたのです。
子どもたちがまだ小さかったころ、SunSunひろしま(という広島県観光キャンペーン)の時竹原を訪ねわたしは忘れていましたがスタンプラリーでスタンプを集め、お菓子とお茶をご馳走になったと女房が云っていました。 |
18.05.06.更新 09.07.02裕・編集 |
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(竹原市内のJR駅) |

17.09.08.撮影 |

17.09.08.撮影 |

17.09.08.撮影 |

09.06.30撮影 |

17.09.08.撮影 |
(呉線)
JR忠海駅 |
(呉線)
JR安芸長浜駅 |
(呉線)
JR大乗駅 |
(呉線)
JR竹原駅 |
(呉線)
JR吉名駅 |
18.05.06.編集 |
18.05.03.編集 |
18.05.06.編集 |
13.04.30.更新 |
17.11.10.編集 |
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(旧竹原地区) |
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09.06.30撮影 |
(道路面に設置の) 道案内標識 |
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09.06.30撮影 |

09.06.30撮影 |

09.06.30撮影 |
(竹とかぐや姫デザインの) マンホール蓋 |
上水道・仕切弁用蓋 |
(竹原市の市章がある) 消火栓用蓋 |
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(吉名地区) |

17.09.08.撮影 |

17.09.08.撮影 |

17.09.08.撮影 |

17.09.08.撮影 |

17.09.08.撮影 |
光海神社 |
(光海神社)
太閤松・遺木 |
(光海神社)
手水鉢の盃状穴 |
(光海神社)
オガタマノキ |
(奉納絵馬)
楠木正成・正行 桜井の別れ |
17.11.13.編集 |
17.11.14.編集 |
17.11.14.編集 |
17.11.14.編集 |
17.11.14.編集 |
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17.09.08.撮影 |

17.09.08.撮影 |
(奉納絵馬)
弁慶牛若合戦 |
(奉納額)
日露戦役凱旋額 |
17.11.14.編集 |
17.11.14.編集 |
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17.09.08.撮影 |

17.09.08.撮影 |

17.09.08.撮影 |

17.09.08.撮影 |

17.09.08.撮影 |
(光海神社前広場)
池田勇人胸像 |
(光海神社前広場)
元・火ノ巫渡り橋の石材 |
(光海神社前広場)
川本庫吉翁頌徳碑 |
(光海神社前広場)
長谷多嘉助翁頌徳碑 |
(光海神社前広場)
池田昌造翁彰徳碑 |
17.11.03.編集 |
17.11.11.編集 |
17.11.17.編集 |
17.11.17.編集 |
17.11.17.編集 |
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