(池田勇人胸像前に石畳として)保存されている石材

  竹原市吉名町の光海神社前に保存されている「元・火ノ巫渡り橋の石材」です。
元々は、「火ノ巫渡り橋」の橋材料として使用されたものと推定されるそうです。
次に郷川に架かる「八王子橋」として使用されていました。
1991(平成3)年に架替えで不用材となり、保存されることになりました。
  (説明板の説明文の年代が前後していますので上記のようだろうとわたしが推測したものです)
      (現在ここに保存されている)石畳の由来について
この石畳は、文化3(1806)年丙寅の記名があり文政年間(1821~1824)*の古文書によれば当時吉名村に橋弐拾壱ヶ(21)所あり、土橋十七、木橋一、石橋三ヶ所あり石の橋は、火ノ巫渡り、新開堤渡り、嶋屋渡り、との三名称あり、その内この石材は火ノ巫渡り橋のものと推定されます。
架橋後多くの人通りにより表面はよく磨かれています。
平成3(1991)年1月鉄筋コンクリートの近代架橋により取り壊しになるところでしたが由緒ある石材なので保存したものです。
この石材は、豊田郡吉名村字八王子橋として昭和10(1935)年呉線が開通するまで主要村道の橋として、八王子に村役場があり光海神社、吉名村尋常高等小学校へ通ずる郷川に架かっていた石の橋。昭和15(1940)年頃まで魚の朝市があり有名な場所でした。
    *古文書とは、広島藩地誌「芸藩通志」の資料であった「国郡志書出し帳」だろうとわたしは思いますが
説明板の文章は、ここに(石畳として)保存された石材と、この辺りの場所のことを説明したいことがまじりあっており、年代的にも前後する文章になっているので凡人のわたしにはわかりにくいものでした。
説明板の設置者の記述がありませんでしたが、今後取り替える時には竹原市教育委員会による説明文で、橋の位置などがわかる付近地図があるものにされたらと余計でおせっかいを焼きたくなる説明板でした。
JR吉名駅で下車し駅舎を撮影してから光海神社の方へ向かいました。
地図で見た様に(神社前の)道路沿いに立像ではなく胸像が建立されていました。その胸像前に石畳があり説明板が設置されていましたのでこの頁を編集しました。
この吉名地区にまったく知識がないわたしでしたので、現在の地図を下段に付けましたが旧村役場の位置はわかりません。
17.11.11.裕・記編集

17.09.08.撮影
広島県広島県竹原市吉名町2049  (光海神社前)

17.09.08.撮影
「池田勇人君生誕之地」石碑  「石畳の由来について」説明板  「池田勇人君」胸像

17.09.08.撮影



「橋梁など」編



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