(光海神社)奉納絵馬など

  竹原市吉名町宮条に鎮座している光海神社に奉納されている「奉納絵馬、奉納額」を取り上げました。
奉納絵馬(楠木正成・正行 桜井の別れ)、 奉納絵馬(弁慶牛若合戦)、 日露戦役凱旋奉納額を取り上げましたので、それぞれの概説を(下段で)試みてみました。
桜井の別れ: 桜井駅は、大阪府三島郡島本町桜井にあった宿駅。
古来、西の幹線道路である西国街道(旧山陽道)の要衝に位置し、『太平記』の「楠木正成(1294-1336)・正行(1326-1348)父子の「桜井の別れ」の地として知られる。
1336(建武3・延元1)年、足利尊氏(1305-1358)を討つため湊川に向かう楠木正成が、嫡男の正行(まさつら)に遺訓を垂れ、河内国に帰らせたと伝えられている。
建武中興、南北朝争乱の歴史を語り伝える重要な場所であることから、1921(大正10)年に国の史跡に指定された。
桜井駅跡には陸軍大将乃木希典筆「楠公父子訣別之所」の碑、海軍元帥東郷平八郎筆「子わかれの松のしづくに袖ぬれて昔をしのぶさくらゐのさと」(明治天皇御製)の碑、駐日英国大使パークスが楠木正成の忠誠心に感じて、表に「楠公訣児之処」と刻し、裏に英文を記した碑などがある。
弁慶牛若合戦: 五条大橋(ごじょうおおはし)は、京都府京都市を流れる鴨川の五条通に架設された橋。平安時代末に牛若丸(源義経:1159-1189)と弁慶(?-1189)が出会ったという伝説で知られる橋。
乱暴者の弁慶は、千本の太刀を奪おうという悲願を立て、道行く人を襲っては太刀を奪い取り999本までになった。そして、あと一本というところで、五条大橋を笛を吹きながら通る牛若丸と出会う。
弁慶は牛若丸に襲いかかるが、牛若丸は欄干を飛び交い、最後は返り討ちに遭ってしまう。
日露戦争:
(明治37・38戦役)
1904(明治37)年2月から翌(明治38)年にかけて、満州・朝鮮の支配をめぐって戦われた日本とロシアの戦争。
ロシアの南下政策に対して日本は英・米の支持の下に強硬政策をとり開戦。日本軍は旅順攻略・奉天会戦・日本海海戦で勝利を収めたが、軍事的・財政的に限界に達し、ロシアでは革命運動の激化などで早期戦争終結を望み、日露両国は米大統領T・ルーズベルト(1858-1919)の勧告をいれて、1905(明治38)年9月ポーツマスで講和条約を締結した。
光海神社に奉納されている絵馬、額を取り上げました。
五条の大橋での牛若丸、弁慶の戦いの逸話は子どものころに見聞きしていてすぐにわかりましたが、戦後教育を受けたわたしには楠木正成・正行、桜井の別れはすぐにはわからなかったのです。
また、日露戦役からの凱旋額をみましたので取り上げました。県内各地で凱旋石碑をみてきていましたので、この地(吉名村)からも日露戦争に出兵した方々がいたことがわかるもので、(境内をざっと見ましたが、)戦没者を弔う忠魂碑のようなものはないようでした。
17.11.14.裕・記編集
奉納絵馬(楠木正成・正行 桜井の別れ)

17.09.08.撮影
広島県竹原市吉名町(宮条)2046  光海神社

17.09.08.撮影
   奉納
昭和九(1934)年四月吉日 !!
賀茂郡仁方町字大 !!
保手浜国平
    桜井の別れ
「太平記」の名場面のひとつで、国語・修身・国史の教科書に必ず載っていた逸話。
戦前教育では、有名な話だったそうです。
奉納のしゃもじ
 
 (厳島神社大鳥居)
 奉納絵馬(弁慶と牛若丸合戦)

17.09.08.撮影

17.09.08.撮影


   奉納
辨慶 牛若合戦

大正四(1934)年十一月壱日 !!
豊田郡吉名村
■村花子(?)




    弁慶 牛若合戦
「義経記」のなかで、五条の橋の上での話。
おとぎ話としてわたしも子どものころ知った話です。
 日露戦役凱旋奉納額

17.09.08.撮影

17.09.08.撮影
奉納  明治三十七八年紀念  陸軍歩兵上等兵宮重条之助

17.09.08.撮影

17.09.08.撮影

17.09.08.撮影
松遺木
「太閤松」記念
(手水鉢)
盃状穴
オガタマノキ
招霊木



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