三原城跡

  現在の広島県三原市館町を含めた地域にあった「三原城」です。
  三原城                 (三原観光協会設置の説明板)
三原城は、1586(永禄10)年戦国の知将と呼ばれた小早川隆景(1533-1597)が築きました。
隆景は戦国武将毛利元就(1497-1571)の三男で、兄弟の強い結束を訴えかけた「三本の矢」の逸話でも知られている武将です。
三原沖の大島・小島をつないだ埋め立て地に建てはじめられた城で、東は湧原川から西は(現在の)臥龍橋付近まで約900m、南北には約700mもの長さだったといわれています。この中に本丸、二之丸、三之丸があり、櫓が32と城門が14もあるとても大きな城でした。
当時は、この城の姿が、満潮の祭に(海に)浮かんでいるように見えたことから「浮城(うきしろ)」とも呼ばれました。
豊臣秀吉(1536-1598)や徳川家康(1542-1616)もこの城を訪れ、すばらしさに感動したと云われています。
特に天主台は広島城の天守閣が6つも入る
現在は濠と天主台石垣・舟入櫓跡の本丸中門跡などが残っています。
天主台西側の石垣(北と南の隅)は、古い様相を示しており隆景が築城したものと思われます。
“見ても見事な三原の城は地から湧いたか浮城か”と唄われた三原城の天主台上は現在公園となっており三原駅構内から入ることができます。 
国史跡:昭和32(1957)年12月11日指定、平成10(1998)年12月8日〔追加指定、名称変更〕
城の遺構は、埋め立てや掘削によって、天守台の南側や、本丸・二の丸・三の丸の大部分がJR三原駅と駅前商店街になっている。
天守台北側の石垣やそれを巡る堀跡、本丸中門跡、船入り跡、船入櫓跡等が点在して旧状を留めている。
天主台石垣(館町)
日本一の規模を持つこの天主台は広島城の天守閣なら六つも入るという広さを持ちます。三原城が造られた1567年より約10年後に織田信長によって安土城が造られ、初めて天主台に天守閣が聳えるようになり、以後全国に流行しました。
然し、この三原城築城の時はまだ天守閣を造る思想のない時代だったと考えられています。山城から平城に移行する時代のごく初期の城築です。
この裾を引いた扇の勾配の美しい姿は群を抜きます。しかも余人は真似るべきではないと云われた「アブリ積み」という特殊の工法は、古式の石積形式を四百年経た今日まで立派に伝えています。
1707年の大地震では、城内を役夫二万五千人を動員して修理しています。しかし破損箇所は・・・「元のごとく成りがたかりしを、伝右衛門(竹原市下市)をして築かしめられけるに、遂に築きおさめければ・・・・」とありますが、これは北東陵面のことと推測します。
現在の三原城跡は、史蹟としての保存よりも、鉄道布設が優先されたようになっています。
1894(明治27)年(当時・山陽鉄道)三原駅建設の為に、城跡地は駅用地に使用されました。
そして、1975(昭和50)年の山陽新幹線開業、およびその後の三原駅高架化により、高架が本丸および天主台跡を貫いていることもあり、城跡地は寸断され現在の姿になっています(なり下がっています)。それでも国史跡に指定されていますが。

わたしが最初に三原城の一部を撮影したのは、2009年隆景広場の堀の根際に建立されている“三原市原爆死没者慰霊碑”を訪ねた時で、今(2017年)回も三原城の石垣、説明板を撮影しただけでしたが、今回広島ぶらり散歩「三原市」編を編集するときに、三原城を扱っていない頁では駄目だなと思って、説明板とわずかな画像ですがこの頁を編集しました。
18.02.14.裕・記編集

17.09.08.撮影
広島県三原市館町1-1

17.09.08.撮影

17.09.08.撮影
三原城説明板(文は上記) 天主台石垣説明板(文は上記)

09.10.12.撮影
(三原市原爆死没者慰霊碑)         三原城石垣                 新幹線高架

09.10.12.撮影

17.09.08.撮影
(高架下からみました)

17.09.08.撮影

17.09.08.撮影



「古墳遺跡遺構など」編



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(三原城西築出)酉門跡・碑


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