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三原市久井町和草の三原市久井支所前に建立されている「久井町原爆(死没者)慰霊碑」です。
※この碑が建立された1985(昭和60)年当時は、御調郡久井町でした。
(久井町は、2005年3月22日三原市などと合併し新しい三原市の中に位置しています) |
久井町原爆被害者の会
九死に一生を得た直接の被爆者、防衛召集※1)で(原爆被災後の)救援活動・死体処理にあたった入市被爆者、肉親・縁者の安否をたずねての入市被爆者や遺族で組織されたそうです。 |
※1) |
1942(昭和17)年10月に陸軍召集規則改正(陸軍省令第52号)と陸軍防衛召集規則(陸軍省令第53号)が施行され、陸軍に防衛召集が定められました。
防衛召集は同(昭和17)年4月に日本本土が初めて空襲(ドーリットル空襲)を受けたことを契機として、空襲や撹乱を目的とした敵小部隊の上陸に備えるためのもので[、防空召集と警備召集にわけられ、戦時または事変に際して防衛上必要ある場合に在郷軍人および国民兵役の下士官・兵(予備役や補充兵役を終えた者)を召集することと規定されました。
防衛召集は「待命」という手順があり、他の召集と違っていました。
待命中は自分の民間の仕事に従事し、必要なときに限り召集され防空あるいは警備の任務につき、必要がなくなればまた待命の状態にもどるいわばパートタイムの召集だったそうです。 |
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表面: |
原爆慰霊碑
久井町長 中山定夫謹書 |
裏面: |
(なし) |
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表面: |
昭和二十年八月六日広島に、九日長崎に人類史上初の原子爆弾が投下されて両市は一瞬にして焦土と化し六十余万人が被爆し二十数万人の尊い命が奪われた。
この原爆によって死歿された久井町関係の方々の霊魂を慰めるとともに核兵器の恐怖と世界平和の尊さを風化させることなく後世に伝へ二度とヒロシマ・ナガサキの惨事が繰り返されないことを願い被爆者が歴史の証人として手に手をとり合い久井町の協力も得てこの碑を建立する。
昭和六十年八月六日 久井町原爆被害者の会
久井町議会議長 林 直 謹書 |
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制限された碑面積の中での文章ですので、昭和20年=1945年という事の記述がないことは致し方ないことでしょう。
しかし、日本語のあいまいさなのでしょうが、「・・・原爆が投下された・・・」とありますが、主語は米軍だという事を昨(2017)年流行語にも取り上げられた“忖度(そんたく≒他人の気持ちをおしはかること)”なのではと思う慰霊碑碑文には(他の原爆死没者慰霊碑も含め)多くあります。
現在は、同盟国、核の傘のもとにあり、当時戦争という状態であったわが国であろうとも、人類史上はじめて原子爆弾を投下した国は「アメリカ合衆国」であり、原爆の投下を命令したのは「(ハリー・シッペ)トルーマン大統領」(1884-1972)であったことを明示するのが原爆で亡くなっていた人たちへのせめてもの追悼になるのではと(常々わたしは)思っていますので、ここでも敢えて取り上げました。 |
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表面: |
原爆被害者 叫び 被爆体験記発刊記念 |
裏面: |
昭和六十三年一月 久井町原爆被害者の会 昭和63年=1998年 |
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表面: |
叫び 第二集発刊記念 |
裏面: |
一九九三(平成七)年八月六日 久井町原爆被害者の会 |
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表面: |
原爆被害者の会々員
莇原地区11名。 吉田地区12名。 江木地区29名。 下津地区20名。 泉地区25名。
和草地区30名。 羽倉地区23名。 山中野地区19名 。坂井原地区52名。
一九九九(平成十七)年七月 久井町原爆被害者の会建立 |
裏面: |
(なし) |
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資料で知っていましたが、2017年暮れになって息子運転の車で、この久井町原爆(死没者)慰霊碑をたずね頭を垂れた後撮影しました。 |
18.02.05.裕・記編集 |