(久井町和草)木城彌太郎之碑

  広島県三原市久井町和草の三原市久井支所から北へ約300mの道路根際に建立されている「木城彌太郎之碑」です。
※日露戦役に出征し負傷し野戦病院にて歿した木城彌太郎さんを慰霊する碑として建立されたようです。
題を揮毫した人の名は(わたしには)読めませんでした。
裏面に碑便が刻まれていましたが経年変化で読みずらくなっており、(わたしには)正確に読めませんでした。負傷した地名も刻んであるようですが読めません。
こういう碑文内容かなと思うところを下段に記述しました。
木城彌太郎さんは、(碑文から)陸軍歩兵上等兵であったことがわかります。
1901(明治34)年第五(師団)待機■■入営、1904(明治37)年3月中旬宇品港から日露戦役に出征。同(明治37)年7月31日■■で負傷、第一野戦病院に8月2日転院して歿す。
明治39(1906)年8月〔よく読めないのですが?〕遺族■■會建之
日露戦争(にちろせんそう:日露戦役、明治三十七・三十八年戦役)
1904(明治37)年2月10日から翌(明治38)年にかけて、満州・朝鮮の支配をめぐって戦われた日本とロシアの戦争。
ロシアの南下政策に対して日本は英・米の支持の下に強硬政策をとり開戦。
日本軍は旅順攻略・奉天会戦・日本海海戦で勝利を収めたが、軍事的・財政的に限界に達し、ロシアでは革命運動の激化などで早期戦争終結を望み、日露両国は米国大統領ルーズベルトの勧告をいれて、1905年9月ポーツマスで講和条約を締結した。
  第五師団(島根・広島・山口出身の兵隊で編成され衛戍地を広島とする師団)。
日露戦争では沙河会戦(さかかいせん:1904年10月9日 ~10月20日)・奉天会戦に参加。
今(2017年暮れ)回は、現在三原市久井支所前に建立されているという久井町原爆(死没者)慰霊碑をたずね頭を垂れた後撮影することが主目的でした。
慰霊碑、役場を撮影しそのまま帰るのはもったいないと隣のくい文化センターに野外彫刻などが建立されているかもしれないと考え、(直接行かず)役場前の道からぐるっと回って行くことにして、北へ≒300mほど行った道端でみたのがこの碑でした。
碑文はだいぶ汚れていましたので、碑文の解読はチト無理かなと思って碑面を撮影しただけでした。
帰宅後撮影画像を明るくして上記のようなことがわかりましたので、この頁を編集しました。
縁ある方がこの頁をご覧になって詳しく教えていただければ、訂正追記したいと思っているのですが。
  18.02.18.裕・記編集

17.12.29.撮影
広島県三原市久井町和草 (三原市久井支所北へ≒300mくらい)

17.12.29.撮影

17.12.29.撮影

17.12.29.撮影



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