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山口県光市束荷(つかり)の旧伊藤博文邸前に建立されている「伊藤博文絶筆・碑」です 。 |
(説明板) |
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(碑面) |
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-説明板- |
(伊藤公の絶筆)
万里の平原南満州、風光 闊達(かったつ)たり一天の秋、
当年の 戦迹(せんせき)余憤を留 む、更に行く人をして暗愁(あんしゅう)を牽(ひ)かしむ |
(解説)
広々とした南満州の大平原は、秋空のもと住み渡っている。しかし、日露戦争の戦いのあとはいまなお、やりきれない憤りをとどめ、さらに道ゆく人を暗い愁いに沈ませる。 |
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※ |
この七言絶句は、伊藤博文が1909(明治42)年10月25日汽車で奉天から長春に向かう車中での作とされています。次の10月26日ロシアに向かっていてハルビンの駅頭で伊藤博文は狙撃暗殺されました。 |
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伊藤博文(いとうひろぶみ:1841-1909) |
政治家。周防国熊毛郡束荷村字野尻生まれ。百姓・林十蔵の長男。父が武家奉公人・水井武兵衛の養子を経て、足軽・伊藤弥右衛門の養子となり伊藤姓となる。
来原良蔵(1829-1862)の紹介で吉田松陰(1830-1859)に学び、倒幕運動に参加。のち明治憲法立案に当たる。1885(明治18)年内閣制度を創設、初代総理大臣となった。枢密院・貴族院の初代議長を歴任。のち、立憲政友会を組織し、総裁に就任。日露戦争後、初代韓国統監となったが、ハルビンで朝鮮独立運動家安重根(アン・ジュングン:1879-1910)に1909(明治42)年10月26日暗殺された。
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今(2017年)回、熊毛郡平生町の人間魚雷「回天」の資料などが展示されている阿多田交流館などを見学した後、高速自動車道・山陽道に乗ろうとして向かって行った時に、旧伊藤博文邸があるという標識をみたと運転中の息子が云ったので立ち寄ってみるかと少し引き返し見学したのがこの旧伊藤博文邸でした。 |
旧伊藤博文邸の前でみたのが、伊藤博文立像とここで取り上げた「伊藤博文絶筆・碑」でした。
伊藤がハルビンで暗殺されたことは知っていましたが、この碑を見るまで伊藤の絶筆になったという七言絶句のことは知らなかったので、この頁を編集したのです。 |
18.03.05.裕・記編集 |