(旧伊藤博文邸前)伊藤博文立像

  山口県光市束荷(つかり)に建築されている旧伊藤博文邸の前に建立の「伊藤博文立像」です。
*2004(平成16)年3月この銅像が建立されたそうです。
*作者に関して、台座周りをみましたが無く、サインもないかとみたのですがわたしにはわかりませんでした。
        伊藤博文公について 監修:鎌倉市 伊藤博雅 設置:大和町観光協会
1894(天保12年9月2日) 当地で出生。幼名:林利助
1849(嘉永2)年      9歳の時、萩へ転居
1854(安政元)年     14歳の時父が伊藤家の養子になったため
                 「伊藤」姓を名乗り、名を「俊輔」と改める
1857(安政4)年4月    松下村塾に入り、吉田松陰に学ぶ
1868(明治元)年      「伊藤博文」を名乗る
1868(明治元)年5月    兵庫県知事よなる
1871(明治4)年10月    岩倉使節団に副使として参加、米国・欧州へ
1885(明治18)年12月  初代内閣総理大臣となる
1909(明治42)年3月   伊藤公自らの基本設計による伊藤公記念館(旧伊藤博文邸)着工
1909(明治42)年10月   ハルビン駅頭において凶弾に倒れる
1920(明治43)年5月    伊藤公記念館(旧伊藤博文邸)落成
この七言絶句は、伊藤博文が1909(明治42)年10月25日汽車で奉天から長春に向かう車中での作とされ、10月26日ロシアに向かっていてハルビンの駅頭で狙撃暗殺されました。
*資料は山口県教育庁社会教育・文化財課の公開資料などを参照しました。
伊藤博文(いとうひろぶみ:1841-1909)
政治家。周防国熊毛郡束荷村字野尻生まれ。百姓・林十蔵の長男。父が武家奉公人・水井武兵衛の養子を経て、足軽・伊藤弥右衛門の養子となり伊藤姓となる。
来原良蔵(1829-1862)の紹介で吉田松陰(1830-1859)に学び、倒幕運動に参加。のち明治憲法立案に当たる。1885(明治18)年内閣制度を創設、初代総理大臣となった。枢密院・貴族院の初代議長を歴任。のち、立憲政友会を組織し、総裁に就任。日露戦争後、初代韓国統監となったが、ハルビンで朝鮮独立運動家安重根(アン・ジュングン:1879-1910)に1909(明治42)年10月26日暗殺された。
今(2017年)回、熊毛郡平生町の人間魚雷「回天」の資料などが展示されている阿多田交流館などを見学した後、高速自動車道・山陽道に乗ろうとして向かって行った時に、旧伊藤博文邸があるという標識をみたと運転中の息子が云ったので立ち寄ってみるかと少し引き返し見学したのがこの旧伊藤博文邸でした。
旧伊藤博文邸の前でみたのが、ここで取り上げた伊藤博文立像と伊藤博文絶筆・碑でした。
伊藤がここ旧伊藤博文邸の完成をみることもなく暗殺されたこともここを見学するまで知らなかったのです。
伊藤像が旧伊藤博文邸を見守る如き姿でこの像が建立されています。
ここ伊藤公記念公園内には他に伊藤博文座像が建立されているようですが、(わたしは)みなかったのでお見逃しなくということで敢えて記述しました。
 18.03.06.裕・記編集

17.03.19..撮影
山口県光市束荷2250-1    (伊藤公記念公園)

17.03.19..撮影

17.03.19..撮影
旧伊藤博文邸 と 詩碑(裏面)

17.03.19..撮影
旧伊藤博文邸 と 詩碑(裏面)

17.03.19..撮影
旧伊藤博文邸 と 詩碑(裏面)



「山口ぶらり散歩」



(広島ぶらり散歩)
(光市)旧伊藤博文邸
  伊藤博文絶筆・碑
  伊藤博文立像
(光市)伊藤公資料館


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