ことうらじんじゃ
琴浦神社
  兵庫県尼崎市琴浦町に鎮座している「琴浦神社」です。
*現在の社殿は、1972(昭和47)年竣工したことが記念碑からわかりました。
        琴浦神社              尼崎市教育委員会
この神社は、源融公が祭神として祀られています。
かれは嵯峨天皇(786-842:在位809-823)の皇子で、その邸宅京都六条の河原院に陸奥の塩釜の風景を模して庭園をつくり、毎日三十石の潮水をここから運んで、塩を焼かせたと伝えられています。また、海岸の景色が他所より勝れているので、異浦(ことうら)とよばれたともいわれています。平安初期ごろ、京都の貴族との密接な関係が、これらの伝承からも推定できます。
当社に奉納されている絵馬「源融六条河原院の図」の図柄をもとに、大庄地区会館の緞帳が製作されました。
また、潮汲みについては潮江(しおえ)地区にもまったく同じような伝承があります。
源融(みなもとのとおる:822-895)
平安時代前期の公卿(くぎょう)。嵯峨天皇の皇子。母は大原全子。嵯峨源氏。
(さいこう)斉衡3(856)年参議。(じょうがん)貞観14(872)年左大臣にすすみ,従一位にいたる。皇位に希望もあったが藤原基経(836-891)におさえられたという。河原左大臣とよばれ,豪奢な風流生活で有名。死後、追贈正一位。
【小倉百人一首】みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れ初(そ)めにしわれならなくに
尼崎競艇場の正面ゲートから北へ少しにこの琴浦神社が鎮座しているのを地図を見てわかりましたので、参拝してみるかと思っていたのです。水明公園を訪ねた後立ち寄り参拝しました。
古い社殿ではないと一見してわかりましたが、尼崎市教育委員会設置の説明板(上記)には、創建や復興についての記述はありませんでした。
境内で目にした昭和47(1972)年4月吉日建立の琴浦神社御造営記念碑でこんにちの社殿竣工はわかりましたが、創建についてまた、戦時中の空襲被害などについてはわからないままでしたが、昭和10(1935)年5月吉日建立の「玉垣並石垣建立紀念」碑で少しばかり昔のことを思ったのでした。
帰宅後みたWikipediaで、『境内には、一等水準点(点名:10699 標高:0.2276m)がある。』と知りました。
参拝の後、
境内をざっとみたわたしはみなかったな~~と思いましたので、節穴だらけの目になってしまっているようですので、敢てここに記述し、参拝のあと撮影されたらと紹介しました。
17.07.25.裕・記編集

17.07.16.撮影
兵庫県尼崎市琴浦町21-1

17.07.16.撮影

17.07.16.撮影
(社殿をみました)

17.07.16.撮影

17.07.16.撮影
(拝殿から本殿をみました)

17.07.16.撮影
(本殿をみました)
現在の琴浦神社境内で古そうな石碑に目が行ったのです。
1935(昭和10)年5月吉日建立の「玉垣並石垣建立紀念」碑でした。
空襲に見舞われた尼崎であったろうと思い総務省の公開資料・空襲等の概況(下欄*)をみました。
『大阪に隣接する工業都市尼崎には、戦前すでに鉄鋼や電力など基幹的な工業施設が集積しており、軍需生産上も重要な位置を占めていました。このため米軍は、尼崎を爆撃目標都市として位置付けたが、阪神工業地帯において大阪と一体をなすという立地から、市街地焼夷弾空襲においては目標を「大阪-尼崎市街地域」として設定していました。
この結果、昭和20(1945)年3月から6月にかけて実施されました。
B29爆撃機部隊による一連の大都市焼夷弾空襲作戦のなかで、尼崎は大阪に付随する目標市街地として、4回にわたって爆撃されました。このほか、武庫川河口の石油関連施設を目標とした精密爆撃の実施や、隣接する西宮~御影市街地域を対象とした焼夷弾空襲の余波など、B29爆撃機による空襲は計8回にのぼりました。・・・』
戦災地図の掲載もありますがわたしには戦前の琴浦神社の地理的なものがよくわかりません。しかし、この石碑が戦災をくぐり抜け今日に残されていることは意義あることと思い取り上げました。

17.07.16.撮影
「玉垣並石垣建立紀念」碑 と 「琴浦神社御造営記念碑」

17.07.16.撮影
 玉垣並石垣建立紀念・碑  昭和10(1935)年5月吉日(建立)

17.07.16.撮影
琴浦神社御造営記念碑    昭和47(1972)年4月吉日(建立)



「兵庫県尼崎市」編



(広島ぶらり散歩)
(広島県以外の神社寺院一覧)


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