かがくじ
花岳寺
  兵庫県赤穂市加里屋に創建されている「台雲山(たいうんざん)花岳寺」です。
※山号の台雲山は長直の母の法号「臺雲院殿」から、寺号の花岳寺は父の法号「華獄院殿」が由来だそうです。

∵臺雲山華獄寺として創建され、後に旧字などを廃し「台雲山花岳寺」と表記されるようになったそうです。
花岳寺  曹洞宗のお寺で、本尊は釈迦如来。開山は秀厳龍田和尚。歴代赤穂藩主の菩提寺です。
江戸時代初期の正保2(1645)年常陸国笠間藩より転封となった浅野長直(1610-1672)が浅野家菩提寺として創建しました。
元禄14(1701)年浅野長矩(1667-1701)の江戸城での刃傷事件で、浅野家は改易となりました。翌(元禄15)年赤穂義士の吉良邸討ち入りが起きました。その後、赤穂藩には永井家が入り、宝永3(1706)年に森家が赤穂藩主となり、花岳寺を菩提寺と定めました。
赤穂義士37回忌にあたる元文4(1739)年境内に義士墓が建立されました。また、宝暦2(1752)年赤穂義士50回忌にあたり、大石主税と幼な友達であった龍野の藩儒藤江熊陽(ゆうよう)の撰による碑文が刻まれた忠義塚が建立されました。
※1) 花岳寺山門   赤穂市指定有形文化財 平成元(1989)年3月30日指定
この山門はもと(赤穂城)西惣門を花岳寺21代仙珪和尚が明治6(1873)年に購入移築したものです。
柱は、当時より約三寸短くなっていると思われます。栂を主材とし、主屋根は本瓦葺きで、棟木と出桁が一支半継ぎたされています。
この山門は、高麗門形式をとり、西惣門の遺構なので、素朴武骨で武家門の風格を備え、城郭付属建築物として、史的価値の高い門と言えます。
※2) 花岳寺本堂
裳階(もこし)は、雨打 (ゆた) 、雪打 (ゆた) とも云われます。
建物の柱頭のあたりから廂 (ひさし) を四方に取付けた部分を云います。
建物の高さを高くせず内部空間を広げるためのものでしょう。屋根が二重になるので2階建てと誤られますが、構造的には柱が2重にならず、外観的には開口部が一重しかないので判定できます。
最古の例として白鳳時代の法隆寺金堂と五重塔があります。
※3) 花岳寺本堂天井画
江戸末期の法橋・長安義信の絵「竹と虎」です。
安政元(1854)甲寅年に、(赤穂の人)法橋義信が描いた幟絵だったそうです。
絵の左隅に義信の裔孫・長安淳二さんが昭和37(1962)年寄進したとありました。
  拝観料を払っている時、受付の方に本堂の天井をご覧になりましたかと云われなかったらこの天井画に気が付くことはなかったな~と思ったのです。
※4) (本堂内に安置)賓頭盧(びんずる)尊者
佛弟子で十六羅漢第一の尊者 白髪長眉の尊者
出家して阿羅漢果を証し神通力をえました。仏命によって涅槃に入らず南方で衆生を済度しました。
「撫で佛(なでぼとけ)」とも称され、自分の具合いの悪いところを撫でて拝むと治ると信じられています。
※5) 浅野家霊廟
大正7(1918)年浅野本家(最後の殿様)12代浅野長勲(1842-1937)による寄進。
赤穂藩初代浅野長直(1610-1672) を始めとする、浅野家歴代赤穂藩主の像。赤穂四十七義士の位牌などが祀られているそうです。
※6) 義士木像堂
東西の壁面側に、表門組と裏門組に分けて赤穂四十七士の木像が安置されています。
この彩色された木像は、享保20(1735)年義士の三十三回忌に当たり大石太夫と親善だった恵光和尚が京の名工に刻させたのですが作者は不詳だそうです。33回忌から造りはじめられ100回忌に完成したとされているそうです。
正面(北側)には新西国第三十一番霊場本尊千手観世音菩薩像が安置され、その手前に浅野長矩の位牌が配されています。
位牌は「捐舘 冷光院殿前内匠頭吹毛玄利大居士 神儀」とわたしは読みましたが、一般的に云われている戒名は“冷光院殿前少府朝散大夫吹毛玄利大居士”のようです。
本尊は、一寸八分(≒6cm)の小さい像だそうです。
もともと。江州大村の一行寺の秘仏で、大石内蔵助良雄の先祖・金右衛門尉が守り本尊としたのがはじまりで、元禄15(1702)年吉良邸に討ち入った際、大石良雄はこの像を携えていたとされています。
討入りの翌(12月15日)日この千手観音と吉良殿のとどめでさした短刀に書状を添えてここ花岳寺に送ったそうです。
義士木像堂内には、『書画保存の為 館内は撮影禁止です』と貼り出されています。
ここ花岳寺に限らず、宣伝広報になるのになぜ撮影禁止にするのかと常々思っているのです。
花岳寺が云う、書画保存の為というならフラッシュ撮影を禁止にすればいいと思うのです。
広島平和記念資料館の被爆関連の展示品は以前撮影禁止だったのです。特別許可を受けた報道陣は強いライトをつけて撮影している横を見学したこともあるわたしは一般の見学者にも撮影を許可すべきと常々云ってきたのです。
後年(現在)フラッシュを焚かなければ撮影可となっているのです。

広島の(原爆の惨禍にも耐えた)明星院・赤穂義士木像、三次の鳳源寺・義士堂を撮影して頁を編集していますので、ここ花岳寺の義士像も撮影可になることを(わたしは)願わずにはおられません。
  関連頁:明星院・義士木像   鳳源寺・義士堂
※7) 中国より渡来の石佛
舟御光観音像です。背面に刻入の魏の景明2(501)年、本朝25代武烈天皇庚辰2年、達磨大師(?-528)が天竺より唐に渡る二十年も前の観音像です。
大正14(1925)年浅野長友(1643-1675)二百五十回忌に当たり頌徳記念として当花岳寺22世蓬仙和尚がここに建立しました。
彫刻以来約1500年いささかも腐蝕せず精密な原形を留め容姿端厳微妙の相誠に尊重すべき霊像です。
魏(ぎ)とは。南北朝時代の北朝最初の王朝。北魏とも云う。
386年鮮卑(せんぴ)族の拓跋珪(たくばつけい:道武帝)が建国。第3代の太武帝の時、華北を統一。都は初め平城(山西省大同)、のち493年洛陽に遷都。
534年に東西に分裂。東魏は550年、西魏は556年に滅亡。
広島ぶらり散歩「赤穂義士関連」編を2009年に編集しだしたのです。
番外として2013年東京の泉岳寺を訪ねたので、いつかはここ播州赤穂を訪れなくてはと思っていたのです。
2018年になりましたが、‘青春18きっぷ’で長男と訪ねたのです。わたしはここ花岳寺、大石神社を訪ねてみたいと思っていたのです。
先にも述べましたが、江戸時代の作と云われ彩色された義士木像が撮影禁止になっていることにお寺自ら赤穂四十七義士を平成の時代から次の世なるという時代の流れで赤穂義士を知らない人たちにその存在を広めることができるはずのこの木像たちであるのに、その頁を編集できないことに失望したわたしでした。
18.08.03.裕・記編集

18.07.28.スキャン
(拝観時いただいたリーフレットの境内略図を使用しています)
 

18.01.06.撮影
兵庫県赤穗市加里屋1992

18.01.06.撮影
山門

18.01.06.撮影
裳階付き本堂宝暦8(1758)年に再建だそうです    幕には、大石家の家紋「右二ツ巴」、浅野家の家紋「浅野鷹」

18.01.06.撮影
「奉掲 昭和三十七年十一月吉祥日 禄雲斎法橋義信裔孫長安淳二」

18.01.06.撮影
「虎と竹」

18.01.06.撮影
賓頭盧尊者

18.01.06.撮影
浅野家霊廟

18.01.06.撮影
坐禅堂

18.01.06.撮影
義士木像堂

18.01.06.撮影
位牌には「捐舘 冷光院殿前内匠頭吹毛玄利大居士 神儀」     (フォトショップで画像を明るくしました)
 

18.01.06.撮影
(浅野長友頌徳記念)魏の観音像

18.01.06.撮影

18.01.06.撮影
精密な彫刻です 背面下部には碑文?が刻まれています



「兵庫県赤穗市」編



(広島ぶらり散歩)
(台雲山)花岳寺
  浅野家三代の墓
  義士墓所
  忠義塚
  鳴らずの鐘
  野口雨情詩碑、大高源五句碑
  大石手植えのしだれ桜二世


「赤穂義士関連」編


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