赤穂市のマンホール蓋
  兵庫県赤穂市でみた「赤穂市のマンホール蓋」を取り上げました。
市章は、赤穂市の資料によると
『 「赤穂の赤」を図案化し、光芒(こうぼう≒細長く伸びる一筋の光)は塩の結晶と躍進を表したもので、市制施行(1951年)と同時に制定。』とありました。
1889(明治22)年4月1日町村制施行時、赤穗郡赤穗町発足。
1937(昭和12)年4月1日塩屋村・尾崎村・新浜村を編入。
1951(昭和26)年9月1日赤穗町+坂越町+高雄村=赤穂市が発足。
デザインマンホール蓋
赤穂市市の花「ツツジ」、市の木「サクラ」
縁:討入りのときに内蔵助が使ったという“陣太鼓”のギザギザ
下部:赤穂市は千種川河口デルタの町から川の流れ
赤穂藩上水道(旧上水道)は、
『下津井藩主・池田忠継(1599-1615) の代官・垂水半左衛門の指揮のもと、慶長19~元和2(1614-1616)年の三ヶ年で完成されたものです。
(東京都)神田上水、(広島県)福山上水と並び日本三大上水道の一つです。
(赤穂)上水道は、のちの松平(池田の間違い?)時代、浅野時代に形が整えられ、森時代に継がれ、さらに明治・大正・昭和時代に赤穂の町を潤し、昭和19(1944)年新上水道にその役目を引き継ぎました。
赤穗の城下町は、熊見川(現在の千種川)河口デルタ上に形成されたため、海水が混入する掘り井戸では、飲料水が確保できず、≒7km上流の千種川から取水し、導水路で運ばれましたが、ここ(赤穂城内)から≒600mのこし場で配管に分岐・配水されていました。
ここ武家井戸は町家井戸と同じく、配水管からさらに給水管によって、各戸に給水されていました。
赤穂藩上水道は、共同井戸だけでなく武家・町人を問わず各戸までに給水されていたのが大きな特色です。
なお、旧上水はいまでも一部の地域で灌漑油水や打ち水用に使われています。
』と説明しています。
※各戸給水としては英国・ロンドンよりも古い上水道です。』
  関連頁:赤穂旧上水道・説明板
広島ぶらり散歩「赤穂義士関連」編を2009年に編集しだしたのです。
番外としてここ播州赤穂を訪れなくてはと思っていたのです。
2018年になりましたが、‘青春18きっぷ’で長男と訪ねたのです。わたしは花岳寺、大石神社、赤穂御崎の大石内蔵助良男の像を訪ねてみたいと思っていたのです。
それらを見るのに駅前で自転車を借りて回ったのです。その折々に赤穗の町でみたマンホール蓋を撮影してこの頁を編集しましたので、赤穂市のマンホール蓋を網羅したものではないと云うことで見ていただければ幸いです。
18.08.19.裕・記編集

18.01.06.撮影
中央に市章 汚水用マンホール蓋

18.01.06.撮影

18.01.06.撮影
デザインマンホール蓋(カラー) デザインマンホール蓋(鋳物のまま)

18.01.06.撮影

18.01.06.撮影
デザインマンホール蓋(旧上水道) デザインマンホール蓋(汚水)



「兵庫県赤穗市」編



(広島ぶらり散歩)
(「マンホール蓋」編)


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