下村海南胸像と歌碑
  和歌山県東牟婁郡串本町潮岬にある潮風の休憩所前に整備されている「下村海南コーナー」です。
※コーナーには下村海南説明碑、下村海南胸像、下村海南歌碑が建立されています。
※潮風の休憩所は、(旧休憩舎北側に)2014(平成26)年7月に新築、その時下村コーナー整備されたそうです。
下村海南説明碑、1960(昭和35)年12月建立
『先生名は宏、海南の号をもって広く世人に親しまれた
      ・・・・経歴中略(碑文とは別編集下記)・・・・
趣味は百般に及び、情諠はとくに厚く。交友無数であった。また、国土の自然を重んじ、終生山野を跂渉(ばっしょう)して樂しみとした。
昭和三十三年十二月九日東京で八十二才の多彩な生涯をとじた。
  昭和三十五年十二月 下村海南先生記念事業実行委員会
限りあれど いつとはわかる玉の緒の
        たゞ絶ゆるまで 進まんわれは 』
下村 海南(しもむら かいなん:1875-1957)
官僚、新聞経営者、政治家、歌人。
和歌山県。本名は宏。和歌山中学校(現:桐蔭高校)を経て、1898(明治31)年東京帝国大学卒業。
逓信省入省。1902(明治35)年欧州留学・各国郵便為替貯金制度研究、帰国後為替貯金局長・振替貯金制度や簡易生命保険事業の改革に取組む。
1915(大正4)年台湾総督府民政長官、1919(大正8)年総務長官就任。台湾教育会設立や地方自治制度創始に尽力、港湾整備、水力発電の設置、灌漑工事などの事業は、台湾発展の基礎となった。
1921(大正10)年朝日新聞社入社、1930(昭和5)年副社長。1943(昭和18)年日本放送協会会長就任。1945(昭和20)年4月鈴木貫太郎内閣国務大臣、情報局総裁就任。
終戦時のポツダム宣言受諾の玉音放送の実現に尽力した。
1945(昭和20)年8月15日正午に開始された放送は、日本放送協会の和田信賢放送員によるアナウンスから始まり、続いて下村が昭和天皇自らの勅語朗読である事を説明してから、天皇の声を録音したレコードが放送された。前日には、徹底抗戦を主張する一部軍人により、放送を妨害しようとして下村たちが監禁される事件が起きるなど、緊張した情勢が続く中、天皇から直接終戦を伝える玉音放送が無事に行われたことの意義は大きかった。
佐々木信綱(1872-1963)門下の歌人としても知られ、戦後は拓殖大学の総長も務めた。官界、報道界など多彩な分野で能力を発揮した。
下村海南胸像、1959(昭和34)年12月制作
 像の作者(わたしには)読めなかったのです。
下村海南歌碑
 春寒み 野飼の牛も見えなくに 潮の岬は 雨けむらへり
本州最南端碑を撮影して、展望台で太平洋を見て、ツアーバスに戻ろうとしたときに“潮風の休憩所”があり中に入って少しばかりの休憩とという時間もなかったので、
ツアーバスに戻ろうとしたときに、「胸像」をみたので立ち止まったのです。
説明碑がありみると下村海南とありましたので、まったく知らない人物でしたが、歌碑も建立されていましたので歌人だなと思って撮影したのです。
20.03.27.裕・記編集

19.09.29.撮影
和歌山県東牟婁郡串本町潮岬 潮風の休憩所前

19.09.29.撮影

19.09.29.撮影
下村海南説明碑  歌碑  胸像

19.09.29.撮影
(三つの碑を集めて下村海南コーナーに整備されたようです)

19.09.29.撮影
下村海南胸像

19.09.29.撮影

19.09.29.撮影

19.09.29.撮影
(裏面に制作年、作者が刻まれているようです)昭和丗四年十二月 ■■(読めないのです□市?)

19.09.29.撮影









り 













(歌碑も読めなかったのですが、NET検索で3つくらいがヒットし右のように刻んであるようです)



「和歌山県(南紀関連)」編



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  (潮岬)本州最南端・碑
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