熊野古道(大門坂付近)
  和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山に整備されている「熊野古道大門坂付近」です。
大門駐車場からわずかな距離でしたが、案内していただきました。
この頁では、“なでしこジャパン記念モニュメント”、“振ヶ瀬橋”、“夫婦杉”、“多富気王子・跡”などを取り上げました。
熊野本宮観光協会の公開資料によると熊野古道を次のように解説しています。
『古代から中世にかけ、本宮・新宮・那智の熊野三山の信仰が高まり、上皇・女院から庶民にいたるまで、多くの人々が熊野を参詣しました。「蟻の熊野詣」と例えられるほど、多くの人々が切れ目なく熊野に参詣したと伝えられています。
田辺から熊野本宮に向かう中辺路(なかへち)、
田辺から海岸線沿いに那智・新宮へ向かう大辺路(おおへち)、
高野山から熊野本宮へ向かう小辺路(こへち)が、「熊野参詣道」として世界遺産に登録されています。
最も多くの参詣者が歩いたとされる熊野参詣道・中辺路。その難行苦行の道のりを終え、最初にたどり着くのが熊野本宮大社。最初に熊野本宮大社を望む「伏拝王子」の名は、やっとたどり着いた熊野本宮大社を伏して拝んだ、との由来からと伝えられています。
本宮町内には、熊野本宮大社、熊野本宮大社旧社地 大斎原、熊野本宮大社の神域の入口とされる「発心門王子」などがあり、初心者でも手軽に歩ける熊野古道ウォークコースがあります。』
この頁で取り上げた“大門坂付近”を次のように紹介しています。
『日本三大古道の一つ、熊野古道を通る大門坂は、熊野詣で栄えた当時の面影を特に美しく残しており、聖地「那智山」へと全長約600m、高低差約100mの石畳が続きます。
古の関所跡や霊場への入り口といわれた「振ヶ瀬橋(ふりがせばし)」、登り口にそびえる樹齢約800年の「夫婦杉」などが、参詣者を出迎えます。
かつて坂の到着地点に大きな門があったことから、「大門坂」と呼ばれています。古来より、多くの参詣者たちを受け入れてきた熊野古道。大門坂は、その面影をもっとも色濃く今に残している場所です。』
今回のツアーの名称が“おまかせ南紀12景”ということで、熊野古道のほんの一部でも案内しようということだったのでしょう約40分ほどの熊野古道散策でしたが、楽しむことができました。
それでも上りでしたので、息が上がり少々疲れました。
20.06.29.裕・記編集

19.09.30.撮影
和歌山県東牟婁郡那智勝浦町市野々3034-2 大門坂駐車場
なでしこジャパン記念モニュメント
  和歌山県東牟婁郡那智勝浦町市野々の大門坂駐車場に建立されている
                                           「なでしこジャパン記念モニュメント」です。
*監督、選手の足型、手型が刻まれた板が床に嵌め込まれています(わたしは撮影していません)。
※那智勝浦町の資料には、平成27(2015)年7月完成とあります(碑にある年月と違っていました)。
日本における現在のサッカーの起源は東京高等師範学校であり、その生みの親といわれるのが中村覚之助(かくのすけ:1878-1906)です。
中村覚之助は明治11年に那智勝浦町浜の宮で生まれ、東京高等師範学校在籍時の明治35(1902)年に、英国の文献を元に「アッソシェーション・フットボール」を編纂して、ア式蹴球部を創設しました。これが現代日本における現代サッカーの始まりです。
日本サッカー協会のシンボルマークの三本足の烏は、中国の古典にある三本烏となっていますが、日本においてはまぎれもなく八咫烏(やたがらす)です。
八咫烏は神武天皇東征の際に、大和へ道案内した熊野の守護神であり、勝利へ導く遣いとされています。このシンボルマークの発案者とされているのが、日本サッカー協会の初代理事の一人の内野台嶺(たいれい:神奈川県出身;1884-1953)で、中村覚之助の後輩にあたります。・・・・(小略)・・・
このように昔から那智勝浦町と日本サッカー協会との結びつきは深く、現在でもワールドカップやオリンピックなどの国際大会の際には、日本サッカー協会関係者が、必勝祈願の参拝に訪れるなど交流が続けられています。
「なでしこジャパン」のFIFA女子ワールドカップ独逸2011優勝、ロンドンオリンピック女子サッカー準優勝の輝かしい功績をたたえ、ここに記念モニュメントを建立します。   2014(平成26)年3月那智勝浦町長(寺本 眞一) 

19.09.30.撮影

19.09.30.撮影
和歌山県東牟婁郡那智勝浦町市野々3034-2 大門坂駐車場

19.09.30.撮影

19.09.30.撮影

19.09.30.撮影
熊野古道の方にむかいました

19.09.30.撮影

19.09.30.撮影
(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町市野々 熊野古道・大門坂登り口

19.09.30.撮影
熊野古道にはいりました

19.09.30.撮影
鳥居の先に振ヶ瀬橋
 
振ヶ瀬橋(ふりがせばし) 
  和歌山県東牟婁郡那智勝浦町市野々を流れる振ヶ瀬川(那智川の支流)に架かる「振ヶ瀬橋」です。
※橋名は、俗界と聖域とを振り分けるという意味から付けられたそうです。
1スパンの短い橋でしたが、聖域に入るということからこのツアーではここで、少しばかり休憩をとったことから撮影しました。

19.09.30.撮影
和歌山県東牟婁郡那智勝浦町市野々

19.09.30.撮影

19.09.30.撮影
振ヶ瀬川 振ヶ瀬橋

19.09.30.撮影

19.09.30.撮影
昭和53年1月竣工 ふりがせばし

19.09.30.撮影
(振ヶ瀬川をみました)水量はわずかでした
(大門坂)夫婦杉
  和歌山県東牟婁郡那智勝浦町市那智山の大門坂登り口にそびえている「夫婦杉」です。
       夫婦杉(めおとすぎ)
      樹齢800年
※和歌山県教育委員会の資料によると、
  この夫婦杉も、“那智山旧参道の杉並木”として昭和33(1958)年4月1日に
                               和歌山県天然記念物に指定されています。
福岡県・太宰府の夫婦杉(樹齢千年~千五百年)は、国の天然記念物に指定されており大きいな~と思ってみましたが、ここ大門坂でみた夫婦杉もおおきいな~と思って撮影しました。

19.09.30.撮影
和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山 熊野古道

19.09.30.撮影
山門表側(修理中の足場・養生シート貼でした)

19.09.30.撮影
(みあげてみました)
たふけおうじ
多富気王子・跡
  和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山に過って鎮座していた「多富気王子社の跡」です。
設置の説明板によると
『熊野参詣道中辺路にある最後の王子社です。
おそらく樹精や峠の神仏の「手向け」をした場所で、それがいつしか王子と呼ばれるようになったと思われます。ただし、王子の名は中世の記録には登場せず、江戸時代の地誌類にみられます。
「熊野道中記」には、「那智山坂ノ内壱町程上リ、右ノ方」と記されています。また、「紀南郷導記」では若一王子、「紀伊続風土記」では児宮と呼んでいますが、「熊野巡覧記」には若一王子と児宮の両方の名を揚げています。
江戸時代には社殿がありましたが、明治10(1877)年に熊野夫須美神社(現・熊野那智大社)の境内に移され、跡地だけとなりました。』
多富気王子?読み方もわからないな~?と思いながら設置の説明板をざっと読みましたが理解できたとはいえず、王子という神社跡なのだと撮影したのです。

19.09.30.撮影
和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山 熊野古道

19.09.30.撮影
多富気王子:九十九王子最後の王子跡です
和歌山県田辺観光協会の資料によると
『九十九王子(九十九は実際の数ではなく、数の多いことを表したもの)といわれる程たくさんの王子社があり、参詣者は王子社を巡拝しなが ら長く険しい旅を続けたのです。
王子社とは、熊野の神様の御子神(みこがみ)が祀られているところであり、参詣者の休憩所でもありました。』

19.09.30.撮影
(設置の説明板)

19.09.30.撮影
多富気王子跡付近をみました

19.09.30.撮影
楠大樹 樹齢800年

19.09.30.撮影
(ツアー参加者の方々少しばててきたようです)

19.09.30.撮影
「熊野古道 大門坂」 この辺りでツアーでの散策は終わりました



「和歌山県(南紀関連)」編



(広島ぶらり散歩)
熊野那智大社
  (熊野那智大社)那智の樟
那智山青岸渡寺
那智山郵便局(丸型ポスト)
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熊野古道(大門坂付近)
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