(熊野本宮大社)和泉式部祈願塔
  和歌山県田辺市本宮町本宮の熊野本宮大社境内に建立されている「和泉式部祈願塔」です。
※元来、熊野本宮大社の旧社地にあったそうで、それを移転させてきたものだそうです。
    和泉式部祈願塔  (平安朝の宮廷女人歌人)
熊野へ詣でたりけるに女身のさわりありて
               奉幣かなはざりければ
“晴れやらぬ身に浮雲のたなびきて
               月の障りとなるぞ かなしき”
   その夜 熊野権現の霊夢ありて
“もろともに塵にまじわる神なれば
               月の障りの何かくるしき” 
  かくて身を祓い清めて 多年あこがれの「熊野詣で」を無事すませしと云う。
設置の説明板の歌だけではよくわからなかったわたしでしたが、和歌山県企画部文化学術課の公開資料「紀州民話の旅」で少しばかりわかりましたので引用しました。
『なだらかな茶畑がひろがる丘陵地。その一段高いところに、伏拝(ふしおがみ)王子の祠。そして、傍らには、笠塔婆の上に宝篋印塔の塔身と蓋を積み上げた、一風変わった石碑もあります。
平安中期、熊野へ詣でた和泉式部の供養塔といわれています。
都からはるばるやってきた和泉式部は、最後の休憩地「神向山」に着くころ、月の障りとなりました。
穢(けが)れた身での参拝はできない―と、ここから熊野を伏し拝んだ式部だったが、
その夜の夢枕に現われた熊野権現の「もろともに 塵にまじわる神なれば 月の障りも何か苦しき」とのお告げで、無事、参ることができたというのが、そのお話です。
伏拝の地名も、ここから起ったのだというが、これは時宗の念仏聖たちが「熊野権現は女人の不浄をも嫌わない、広大無辺な神」だという思想を広めるため、有名な和泉式部をかつぎ出したのだ―とする説が強いようです。』
※月の障り(つきのさわり)≒1)月経。メンス。月のもの。 2)月の光をさえぎるもの。
和泉式部 (いずみしきぶ:976頃-1036頃)
平安時代中期の女流歌人。父は大江雅致 (まさむね) 、母は平保衡 (やすひら) の娘。父母ともに縁のあった冷泉天皇皇后昌子 (しょうし) のもとに早くから出仕したらしい。
20歳前後で和泉守橘道貞 (みちさだ) と結婚し、小式部内侍 (こしきぶのないし) を生んだが、冷泉天皇皇子為尊 (ためたか) 親王と関係し、道貞と離婚。
長保4 (1002) 年為尊親王と死別、翌年夏頃からその弟敦道 (あつみち) 親王と関係が生じた。寛弘4 (1007) 年敦道親王とも死別、寛弘6年頃一条天皇中宮彰子 (しょうし) に再出仕した。その後藤原保昌 (やすまさ) と再婚。万寿2 (1025) 年小式部内侍に先立たれる不幸もあった。
最終詠歌は万寿4年皇太后妍子 (けんし) 追善歌。多感で清新な詠歌は傑出しており,『拾遺集』以下の勅撰集に 250首近く入集し、家集『和泉式部集』がある。
『和泉式部日記』は敦道親王との愛情の成立過程を記したもの。和泉式部にまつわる説話、伝説は、民間信仰と結びついて広く各地に分布している。
和泉式部の名だけは知っていたので説明板の歌を読んでみてもピンと来なかったわたしでしたので、一応撮影しておくかと思ったこの祈願塔でした。
和歌山県の資料を見るとそうだったのかと、熊野権現の懐の深いところを広める意味も持った祈願塔だったのかと知ったのです。
.20.07.14.裕・記編集

19.09.30.撮影
和歌山県田辺市本宮町本宮1100  熊野本宮大社

19.09.30.撮影

19.09.30.撮影



「和歌山県(南紀関連)」編



(広島ぶらり散歩)
熊野本宮大社
  (境内建立)和泉式部祈願塔
  (境内建立)白河上皇歌碑
  八咫ポスト


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