高野山奥之院
  和歌山県高野町高野山に創建されている“高野山信仰”の中心にあたる「奥之院」です。
※承和元(834)年に空海自らが現在の地に廟所を定めたとされています。
 翌(835)年3月15日に入定が近いことを弟子らに告げ、3月21日午前4時に永遠の瞑想へ入ったと伝わります。
(おくのいん)
奥之院:
高野山真言宗 総本山金剛峯寺の公開資料を参照すると次のように説明しています
『奥之院は、高野山の信仰の中心であり、弘法大師さまが御入定されている聖地です。
正式には一の橋から参拝します。一の橋から御廟まで約2kmの道のりには、おおよそ20万基を超える諸大名の墓石や、祈念碑、慰霊碑の数々が樹齢千年に及ぶ杉木立の中に立ち並んでいます。』
今回のツアーでは、大駐車場で下車し、
(ツアーガイドの方ではなく)ここ奥之院専属のガイドの方の案内で、中の橋付近から御廟の橋に向かいました。(ので金剛峯寺が云う正式な参拝にはなっていませんが)それにそって撮影できた画像でこの頁を編集しました。
*御廟の橋から先は、撮影禁止とのことでしたので画像はありません。
(こんごうぶじ)
金剛峯寺:
高野山真言宗 総本山金剛峯寺の公開資料を参照すると次のように説明しています。
『高野山は、平安時代のはじめ〔弘仁7(816)年〕に弘法大師によって、開かれた日本仏教の聖地です。
「金剛峯寺」という名称は、お大師さまが『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)』というお経より名付けられたと伝えられています。
東西60m、南北約70mの主殿(本坊)をはじめとした様々な建物を備え境内総坪数48,295坪の広大さと優雅さを有しています。』
空海 (くうかい:774-835)
平安時代の僧。弘法大師。灌頂(かんじょう)名・遍照金剛(へんじょうこんごう)。真言宗の開祖。讃岐の人。俗姓佐伯氏。最澄(天台宗の開祖:766or767-822)と並ぶ平安仏教の確立者。
15歳で母方の伯父阿刀大足(あとのおおたる)について京都へ遊学。儒学などを修め、18歳の時三教指帰(さんごうしいき)の原本を著し仏教に入る。勤操(ごんそう)について南都仏教を学び、次いで国内の難所で修行したと伝える。
804(唐:貞元20)年入唐。長安で青竜寺恵果(けいか)について密教を学び、806(大同)元年帰国。
高野山、東寺を密教の根本道場とし、各地を巡歴。東大寺別当を兼ね綜芸(しゅげい)種智院を創設、密教を宗派として確立した。その教義は弁顕密二教論、十住心論などに、その文学は性霊集、文鏡秘府論などに著され、書においては三筆の一人で風信帖、灌頂歴名などは至宝とされる。
今回のツアーでは、熊野那智大社から国道168号で高野山奥之院へ行くことになっていました。
途中奈良県の谷瀬の吊り橋により、くねくねの道を上り大型がすれ違うには大変な道路でしたが、ツアーバスの運転手の方はさすがにプロという腕前を発揮し無事ここ再び和歌山県の高野山奥之院の大駐車場に着きました。
ここからは先にも書きましたが、奥之院専属のガイド(男性)の方の立て板に水の解説を聞きながら案内してもらいました。
残念ながら説明にあった墓所や慰霊碑など全部を撮影する時間もなく、わずかbな撮影から、撮影できない御廟前、そして地下の祭壇前で手を合わせお参りすることができました。
新明和工業慰霊碑、東日本大震災物故者慰霊碑、樂書塚:花菱アチャコ句碑、安芸浅野家墓所 を取り上げ。
御廟の橋、奥之院弘法大師御廟、護摩堂・御供所
を高野山金剛峯寺の公開資料を参照して編集しました。
英霊殿、最後の項目に、奥之院参拝記念の(一生の)お守りを求めましたので掲載しこの頁の締めとしました。
20.07.22.裕・記編集

19.09.30.撮影
和歌山県伊都郡高野町高野山550

19.09.30.撮影
「虚空(こくう)盡衆生(しゅじょう)盡涅槃(ねはん)盡我願盡」      「南無大師遍照金剛」
盡;「つきる(尽)≒おわる」 
新明和工業(株)慰霊碑
新明和工業のweb siteによると
『当社の慰霊碑「アポロの塔」、「航空殉難者之碑」(
一の橋付近建立で撮影していません)があります。
「アポロの塔」は名前の通り、ロケット「アポロ11号」�を模した慰霊碑です。
当社が1969年に創立20周年を迎えたのを機に、当社の前身である川西航空機時代の空襲殉職者や新明和の在職中に亡くなった役員・社員を慰霊するため、奥之院の公園墓地に建立しました。(完成は1970年5月)
なぜ「アポロ11号」の形をしているのかというと、この“1969年”は、「アポロ11号」が月面に着陸し、歴史上初めて人類が月に降り立つという偉業を成し遂げた年であり、航空機事業を営む企業として、宇宙産業に対する憧憬の意を込めてこの形を採用しました。
・・・中略・・・・両慰霊碑については、毎年秋に法要を行っています。
また、慰霊碑を建立したご縁から、当社は高野山の参詣道環境保全活動にも参画し、参詣道を保全する「道普請(みちぶしん)」を行っています。』
わが家(安芸区)の隣町・東広島市八本松に新明和工業の工場があり、ごみ収集車などを作っているな~と思っていたのですが、まさかここ高野山でロケットを作る会社になったのかと思ったので撮影したのです。(上記のようにロケットを造る会社になったわけではなかったようです。)

19.09.30.撮影

19.09.30.撮影
東日本大震災物故者慰霊碑
日本大百科全書を参照すると
『2011(平成23)年3月11日午後2時46分ごろに発生した東北地方太平洋沖地震によってもたらされた大災害。
地震の規模はM9.0で気象庁観測史上最大の地震となった。
宮城県北部で震度7を記録したほか、岩手、宮城、福島、茨城、栃木、群馬、埼玉、千葉の各県で震度6強から6弱を観測した。この地震により発生した大津波が東北地方から関東地方の太平洋岸に襲来し、各地に甚大な損害をもたらした。
この災害による死者は1万3000人以上、行方不明者は1万4500人以上、6万7000以上の建物が全半壊(2011年4月12日時点)しており、阪神・淡路大震災を上回る戦後最大の災害となった。首都圏でも、JR各線をはじめ、鉄道が長時間停止する事態に陥った。
地震発生後、福島第一原子力発電所(福島県双葉郡大熊町・双葉町)において、放射性物質が漏出する重大事故が発生した。6基の原子炉のうち、1~4号機の電源が津波の浸水により故障し、さらに原子炉建屋内で水素爆発がおきるなど、炉心溶融の危険性が生じ、米国スリーマイル島原子力発電所事故(1979年)を上回り、旧ソ連(現ウクライナ)のチェルノブイリ原子力発電所事故(1986)に比べられる大事故となった。
日本政府は原子力災害特別措置法に基づき、「原子力緊急事態」を宣言、付近住民の避難が行われた。また、福島原発の停止などによって東京電力の供給量が不足し、計画停電(突発的な停電を防ぐため、地域と時間を限定して行う停電)が実施された。』
この大震災のだいぶ前になりますが、東北に10年ほど住み、次男は当時の原ノ町市市民病院で生まれたことなどでとても心いためる震災だったので、震災のことは字引を引用することにしました。
他にも、日本で起きた大震災関係の慰霊碑も建立されているようですが、わたしが目にして撮影したのはこの慰霊碑だけでしたので。

19.09.30.撮影
「樂書塚」 「花菱アチャコ句碑」
(らくがき)お願い・碑、樂書塚、落書用石碑、花菱アチャコ句碑が建立されています。
(らくがき)お願い・碑、
『らくがきは即ち良久加幾で好いこと 長く更に活力を増すものまた落我鬼であるから自分の胸より怪しからぬ思いを去ってしまうもの ■■ある楽しく落がきの出来る場所を作りました。
大切な場所にむやみに落がきを仕ないで此場所で思い出の落がきをして下さい。昭和43(1968)年10月 柳家金語楼(1901-1972) 』
花菱アチャコ(1897-1974)句碑
『笑われて 浮き世をおくる 顔にで来』の句と似顔絵
(横山)エンタツアチャコの漫才をラジオやTVで見聞きしたことがあり、花菱アチャコの句碑が建立されているというので撮影したのです。頁を編集しようと画像を見直している時、落書き塚であることを知り、画像をUPするとそれを作ったのがだった柳家金語楼だったことを知りました。(ので)「樂書塚」と「花菱アチャコ句碑の題」にしました。

19.09.30.撮影

19.09.30.撮影
ガイドさん(青シャツ)20人以上になったのではと心配顔でしたが
安芸 浅野家墓所
安芸浅野家供養塔(奥之院で二番目に大きいもので二番石塔と呼ばれているそうです)。
浅野長晟(1586-1632)夫人の振姫(1580-1617:戒名・正清院殿泰譽興安大禅定尼)の五輪塔です。
振姫は、徳川家康(1542-1616)の三女で、母は、側室・良雲院(お竹の方)です。
1595(文禄4)年会津若松城主蒲生秀行(1583-1612)と結婚したが、1612(慶長17)年死別。
1616(元和2)年当時・紀伊和歌山藩主浅野長晟と再婚、光晟(1617-1693)を生みました。
1617(元和3)年8月29日38歳で死去。この五輪塔は1618(元和4)年8月29日浅野長晟によって建立されました。
1619(元和5)年福島正則(1561-1624)の改易で、長晟は安芸国・備後半国42万6千石で、広島藩主となりました。
ここに浅野家の墓所があるのだと撮影したのです。
振姫の墓所だったことはこの頁を編集する時に知りました。。

19.09.30.撮影
御廟の橋
  高野山の霊峰・楊柳山から流れ出た“玉川”に架かる「御廟の橋」です。
※“御廟聖域でのお願い”の標識が設置され、この先は撮影禁止となっていますので画像がありませんん。
  これから先は弘法大師が永遠の禅定に入っておられるので禅定を妨げないように努力しているので皆様も御協力下さいとあり(決して撮影禁止などと上から目線の注意書きではありませんが)皆さん協力さfれているようです。
ここ奥之院専属ガイドの方にここから先は撮影禁止ですからと云われましたので、わたしはデジカメをリックの中に入れました。

19.09.30.撮影
「奥之院弘法大師御廟」
弘法大師御廟(こうぼうだいしごびょう)
『大師信仰の中心聖地であり、現在でも肉身をこの世にとどめ、深い禅定に入られており、わたしたちへ救いの手を差し伸べていらっしゃるという入定信仰を持つお大師さまの御廟所です。
奥之院の御廟橋の正面突き当たりにあるのが、3間4面構造・檜皮葺・宝形造の御廟です。
承和元(834)年に空海自らが現在の地に廟所を定めたとされています。その翌年3月15日に入定(にゅうじょう)が近いことを弟子らに告げ、3月21日午前4時に永遠の瞑想へ入ったと伝わります。・・・』と金剛峯寺の公開資料で云っています。
燈籠堂(とうろうどう)
『高野山第二世真然大徳(しんぜんだいとく)によって建立され、治安3年(1023年)に藤原道長によって、ほぼ現在に近い大きさになったと伝えられています。
堂内には消えずの火として祈親(きしん)上人が献じた祈親燈(きしんとう)、白河上皇が献じた白河燈、祈親上人のすすめで貧しいお照が大切な黒髪を切って献じた貧女の一燈(いっとう)、昭和の時代にある宮様と首相の手によって献じられた昭和燈が燃え続け、その他たくさんの方々の願いが込められた燈籠が奉納されています。』と金剛峯寺の公開資料で云っています。
石段を登ると、「燈籠堂(とうろうどう)」があります。
(この堂中では各種祈願やお守りの授与がされていますがそれらはスルーしました)
燈籠堂の中に入り、左手に進んでいくとお堂の裏に回り込む道があります。そこを(右回りに)進むと、目の前に弘法大師御廟がありましたので手を合わせて拝みました。
この道を右回りで燈籠堂裏側をまわり、堂の右側面にきます。そこに地下に入る階段がありますので、そこを下ります。
地下には奉納された「燈籠」と「身代わり大師」が壁一面に並んでいます。その前方・最奥部に弘法大師に一番近づくことができる祭壇があり、(ここでも)手を合わせ『南無大師遍照金剛』と唱えました。
再び階段を上がり、燈籠堂から出て、石段を下り、御廟の橋を渡って、この奥之院参拝の主要目的が終わりました。

19.09.30.撮影
護摩堂、御供所
御供所
『高野山の行事等は年間を通じて膨大にありますが、中でも「生身供(しょうじんぐ)」は入定後から現在まで1200年もの間、続けられている儀式のひとつ。これは御廟で待つ空海に食事を届ける儀式で、1日2回行われています。
御供所にて調理された食事は嘗試(あじみ)地蔵での味見を経て、2人の僧が白木の箱に納めて御廟へと運んでいきます。先頭には案内人の維那(ゆいな:僧侶の職名)が歩き、御廟橋を渡って燈籠堂の中へ食事をお供えした後、読経して再び御供所へと戻ってきます。
姿としては見えないかもしれませんが、弘法大師空海は確かにそこにいるのです。そこには、今までもこれからも変わらない厚い信仰が息づいています。』と金剛峯寺の公開資料で云っています。
護摩堂(ごまどう)を字引を紐解けば、
『真言宗などの寺院で、護摩をたき修法を行うための仏堂。本尊は不動明王(か愛染明王)。 』と
御廟の橋を渡って、帰路へ、そこで目にしたのが、護摩堂、御供所でしたので撮影しました。

19.09.30.撮影

19.09.30.撮影
「護摩堂」額    「厄除大師」縦札

19.09.30.撮影
御供所
参道沿い
墓石や、祈念碑、慰霊碑の数々が樹齢千年に及ぶ杉木立の中に立ち並んでいます。
そういえば、杉木立の中に並ぶ墓石などを撮影していなかったと撮影したのです。

19.09.30.撮影
英霊殿
  第二次世界大戦の戦没者を供養するため1957(昭和27)年に建立されました。
改修旨・碑
『・・・前略・・・ ふと見るに木立の内よう朱塗の寺舎を眼とめ立ち入りて見れば大東亜戦争にて亡くなられし幾多の英霊を祀りたるを知り心から合掌す 静かに目を開け周囲の荒れたるを見て我身のふるうをおぼえり時に我一念発起し現在自由社会の礎に日本の御魂に一人でも多く人々の参られんことを願い御霊の安らかに眠られん事を祈りてここに英霊殿を改修す      昭和52(1977)年8月15日   大阪府 音野 進』
前を通り、英連殿の門をみただけでしたが、「改修旨」碑が目に留まり、昭和52年に改修されたことを知った英霊殿でした。

19.09.30.撮影

19.09.30.撮影
 
高野山奥之院参拝記念(一生)お守り
南無大師遍照金剛(弘法大師のお守り)
最後に奥之院参拝記念として、専属ガイドの方が勧めた一生のお守りということで@3,000円でわたしたち夫婦と息子たちのも求めました。
女房のお守りは、期間的には短いものでしたが充分その役割を果たしてくれたのだと感謝とともにお棺の中にいれその役割を終えました。
わたしも一生を終えたときは息子たちに同じようにしてもらいたいと思っています。

19.09.30.撮影



「和歌山県(南紀関連)」編



(広島ぶらり散歩)
高野山奥之院
高野町のマンホール蓋


何処へ行ってもぶらり散歩


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