(神田明神)明治天皇御臨幸記念碑

  東京都千代田区外神田の神田明神に建立されている「明治天皇御臨幸記念碑」です。
碑裏面に刻まれた文字がわたしにはところどころしか読めませんでしたので、神田明神の資料によると
1874(明治7)年9月19日明治天皇(1852-1912)が神田明神に御親拝になられた。
当時の記録によると、明治天皇は祠官本居豊頴の案内により本殿前の大床において御立礼で御拝礼遊ばされたという。東京の神社で明治天皇が親しく御参拝なさったのは靖國神社と神田明神のみであった。
1874(明治7)年という年は、二の宮に少彦名命が迎えられ平将門霊神が本殿から摂社へ遷座されるなど様々なことが起こった年で、非常に慌しい中での明治天皇御親拝であった。碑は紀元2600年奉祝として1940(昭和15)年建立された。
』と紹介しています。
1874(明治7)年、明治天皇(1852-1912)が神田明神に参詣されることになったことに抗議したのが、時の明治(薩長)政府〔太政大臣三条実美(1837-1891)、内務卿大久保利通(1830-1878)、文部卿 木戸孝允(1833-1877)など〕で、1874(明治7)年2月8日に「神田明神社の 霊神は平将門(?-940)であるが、将門は大逆無道の賊神で、一時里人異霊を恐れ堂内に 安置するも今日文明の時にして此の如き逆祀あるべからず、条理明哲にして処 分するは教部の任なり・・・」という論調で天皇の行幸に反対したそうです。
そのような事で神田明神社か主祭神から平将門命を降ろし摂社の祭神と し、かわって常陸大洗磯前(いそさき)神社の、少彦名命の分霊を迎えて、大己貴命とともに二宮を祀る事になりました。
戦後になりましたが、再び平将門命が祭神として迎えられ三宮を祀る事になりました。
平将門 (たいらのまさかど:?-940)
平安中期の武将。高望(たかもち)の孫。
下総国を本拠として土着豪族の伝統的勢力を継承、伯父・国香(?-935)を殺し、関東の最強豪族となった。下総猿島(さしま)に王城を営み、文武百官を置いて新皇と称したが、天慶の乱(931-947)で結果的に朝廷への叛乱とみなされ、平貞盛(?-989)・藤原秀郷(ひでさと:?-?)に攻められて敗死。
天慶(てんぎょう)の乱 =承平天慶(じょうへいてんぎょう)の乱
承平・天慶年間(931〜947)に起こった、平将門の反乱と藤原純友(すみとも:?〜941)の反乱。
将門は関東に勢力を伸ばしたが、結果的に朝廷への叛乱とみなされ、940(天慶3)年敗死、
純友は瀬戸内海で反乱を起こしたが、941(天慶4)年敗死。
律令国家の崩壊と地方武士の台頭とを象徴した事件。
広島ぶらり散歩「天皇関連碑など」編を編集しているわたしは、甥の結婚式の列に並んで神前式場の社殿に入ろうとした時ここで取り上げた「明治天皇御臨幸記念碑」をみました。
式が終わってから披露宴までの短い時間に裏側から正面側から撮影して頁を編集しようと思ったのです。
13.10.18.裕・記編集

13.09.14.撮影
東京都千代田区外神田2-16-2  神田神社

13.09.14.撮影
明治天皇御臨幸記念碑 と 石獅子

13.09.14.撮影

13.09.14.撮影



「東京ぶらり散歩」編



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神田明神正式名称:神田神社)
(神田明神)明治天皇御臨幸記念碑
(神田明神)石獅子
(神田明神)さざれ石、公孫樹


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