(靖国神社)田中支隊忠魂碑

  東京都千代田区九段北の靖国神社に建立されている「田中支隊忠魂碑」です。
田 中 支 隊 忠 魂 碑         昭和9(1934)年2月26日 田中支隊生存者山崎千代五郎等建設
   昭和43」(1968)年2月27日再建  平成8(1996)年9月3日現在地に移設
  第一次世界大戦は、四年余にわたって戦われましたが、特にロシアに与えた影響は甚大で、1917(大正6)年3月、革命が起り、翌年3月にはドイツと単独講和を締結してロシア軍は殆ど解体状態となりました。
当時オーストラリア・ハンガリー軍のチェコ・スロバキア人兵士の中からロシア軍にに投降し、連合国側に協力していた約五万のチェコ・スロバキア軍団は、ウライオストクから欧州の連合国側戦線に増援のため同地に移動していましたが、各地でロシア過激派(革命派)等の抵抗を受けていたので、日本、アメリカ、イギリス、フランス等の各国はチェコ・スロバキア軍救援の名目でシベリアに軍を派遣することを決しました。
日本から第十二師団が派遣されることとなり、1918(大正7)年8月、ウラジオストクに上陸し、9月初めにはハバロフスクに進軍しました。田中支隊が属する歩兵第七十二聯隊は、更に西進してアムール州(現在の中国黒龍江省北方)方面の過激派討伐に任じましたが、広域のため小部隊を僻地に分散配置し苦戦を強いられていました。第三大隊長田中勝輔少佐は砲兵等の配属を受けて田中支隊を編成し、1919(大正8)年2月25日、敵の退路を遮断する任務を受け、ユフタ(ブラゴベシチェンスク北方)付近に達するや、敵の大集団が北方に退却しつつあるのを知り、香田驍男歩兵少尉の指揮する小隊(44名)を偵察のため先遣したが、約20倍の敵の攻撃を受け負傷者3名の外全員戦死しました。支援主力(150名)は香田小隊を赴援中、26日朝香田小隊を覆滅した敵と遭遇しましたが衆寡懸絶して包囲され、敵に多大な損害を与えましたが支隊長は敵弾を受けて自刃し、全員壮烈な戦死を遂げました。更に、配属の砲兵中隊及び歩兵一小隊は西川達次郎砲兵大尉が指揮し、ユフタにおいて待命中、主力方面に銃声を聞き救援に赴いたが優勢な敵と衝突し、負傷して戦場を退いた5名の外107名悉く火砲と運命を共にしました。
この忠魂碑は、重傷を負い生還された山崎千代五郎氏等が戦友の悲壮な最後を想起し、その神霊を慰めるため1934(昭和9)年2月26日、九段坂下に建立されたものを1996(平成8)年9月3日現在地に移設したものです。
本碑台座部分には、1919(大正8)年2月27日、第十二師団長大井成元陸軍大将から同支隊に授与された感状〔1968(昭和43)年2月27日再建復刻〕が刻まれています。
平成8年(1996)9月3日 歩兵第七十二聯隊戦友会   靖國神社
シベリア(西伯利亞)出兵
1918(大正7)年ロシア革命に干渉するため、日・米両国を中心に英国・フランスの各国がチェコスロバキア軍捕虜救援の名目でシベリアに軍隊を送った事件。
米・英・仏が撤兵したのちも日本は駐留を続けたが、国内外の非難により1922(大正11)年に撤兵。
(雨の中で)靖国神社参道を歩き、千鳥ヶ淵戦没者墓苑に行こうととしていた時、靖国神社参道根際に建立されているこの石碑に目がいきましたので、立ち止り近づいて説明板を読みました。(上記)シベリア出兵での出来事での忠魂碑だとわかりました。
広島の騎兵第五連隊跡に建立されている「陣没・軍人軍馬追悼之碑」を2003年(わたしが)みた時“西伯利亞”?と思いそれがシベリアの事だったことを知りましたので、不鮮明な画像ですが、シベリア出兵に関することとして編集しました。
13.11.03.裕・記編集

13.09.15.撮影
東京都千代田区九段北3-1 (靖国神社参道根際)

13.09.15.撮影

13.09.15.撮影

13.09.15.撮影



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