(池上本門寺)帝都大震火災殃死者之霊供養碑、大田区戦没者慰霊塔、日露戦役忠魂之碑

  東京都大田区池上の池上本門寺に建立されている「帝都大震火災殃死者之霊供養碑」です。
※また「大田区戦没者慰霊塔」をこの頁で取り上げました。
※そして「日露戦役忠魂之碑」も取り上げました。
日蓮大聖人説法像をみた時、近くにここで取り上げた「帝都大震火災没死者の霊供養碑」をみましたので、撮影しました。境内を歩いていた時、目にした大田区戦没者慰霊塔と日露戦役忠魂の碑もみましたので撮影しこの頁を編集しました。
事前に池上本門寺のweb siteなどをみて、せっかく訪れるのだからと見どころを下調べをしました。
しかし、ここで取り上げた記念碑などは、本門寺を訪ねた時に偶然出合った碑ですので、まだまだ記念碑は建立されているのでしょうが、時間的なものがありましたので、他の碑を探すことはしませんでした。
戦没(戰歿)という石碑をみてきていましたので、ここで取り上げた「帝都大震火災殃死者之霊供養碑」とはわからず歿と記述していました。没ではなく歿と思い編集していましたが、どうみても歿という字ではないな〜と思って漢和辞典を引いたのです。
「殃(おう)」という字がある事に気が付きましたので、訂正しました。
13.12.24訂正     13.12.15.裕・記編集
帝都大震火災殃死者之霊供養碑

13.09.15.撮影
大正拾二年九月帝都
大震火災殃死者之霊
供養碑
関東大震災(かんとうだいしんさい)
1923(大正12)年9月1日午前11時58分に、相模湾を震源として発生した大地震により、関東一円に被害を及ぼした災害。マグニチュード7.9、最大震度6。
家屋倒壊に火災を伴い、全壊約13万戸、全焼約45万余戸、死者・行方不明者約14万名。
震災直後の混乱の中で、亀戸事件・甘粕事件が起き、また多数の朝鮮人が官憲・自警団によって虐殺されました。
亀戸の労働組合員らが軍隊によって不法検束され、殺害された事件。
憲兵大尉甘粕(あまかす)正彦らが、無政府主義者・大杉栄(1885-1923)、伊藤野枝(1895-1923)夫妻と甥の橘宗一を、憲兵隊司令部で殺した事件。
(わたしは)帝都大震火災歿*死者之霊供養碑と思って編集していましたが「殃」ということがわかりましたので訂正しました。
 「殃」(オウ)=1.ワザワい。とがめる。2.ワザワいする。そこなう。害する。
 例:  「殃災」(オウサイ)=わざわい。災難。惨禍。
大田区戦没者慰霊塔

13.09.15.撮影

13.09.15.撮影
慰霊
大田区戦没者慰霊塔建設委員会
会長:代田朝美他31名のお名前
昭和37(1962)年4月8日建立
慰霊塔建設誌
日華事変太平洋戦争における戦没軍人軍属の英霊と戦災で犠牲になられた人々の幽魂を弔慰し恒久の平和を祈念するため慰霊塔を建設すべく大田区自治会連合会大田区郷友会大田区遺族会及有志は昭和35(1960)年7月大田区戦没者慰霊塔建設奉賛会を結成した。
区民の絶大なる協力と本門寺の好意を得て翌(1961)年9月23日この地に工を起し本日除幕の式を挙げるにいたった 塔内には日清日露の両役をもふくめた区内五千有余に及ぶ犠牲者名を十八地区別
の芳名録に謹記して奉安した
われわれはこの慰霊塔を仰いで今後益々複雑となる国際関係の動きに処する決意を固め 祖国の発展と世界の平和に寄与することを英霊に誓いあわせてその加護を願うものである
        昭和3(1962)7年4月8日 大田区戦没者慰霊塔建設奉賛会
日露戦役忠魂の碑

13.09.15.撮影
(表面)日露戰役忠魂之碑
(裏面)戦没者11名の階級・お名前   明治三十九年十月
日露戦争(にちろせんそう)
1904(明治37)年から翌(明治38)年にかけて、満州(中国東北部)・朝鮮の支配権をめぐって日本とロシアとの間で行われた戦争。
日本は旅順攻撃・奉天の会戦・日本海海戦などで勝利を収めたが、戦争遂行能力が限界に達し、ロシアも革命勃発などによって戦争終結を望み、米国大統領セオドア・ルーズベルト(1858-1919)の斡旋によりポーツマスで講和条約を締結。



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