(丸亀城)天守閣
  香川県丸亀市一番丁の丸亀城「天守閣」をこの頁で取り上げました。
             丸亀城天守閣
江戸時代初期の建築で、五間六間、三層三重楼です。
屋根は南北棟の入母屋造本瓦葺、軒裏丸垂木型総塗籠波形軒です。
一層は高さ2mの石垣の上9mに7.2m石落し及び狭間付、西面を除き腰羽目板張り上部塗籠、一層屋上南北側面に唐破風付。二層は5.4mに7.2m塗籠、二層屋上東西両面に千鳥破風飾付。三層は3.6mに5.4m塗籠。各層武者窓塗、各層の逓減(ていげん)割合はまとまりよく統一されています。
内部は各層床板張、内部柱*1は一層50本、二層36本、三層16本。隅柱は、左右に添柱を建て柱頭に燧梁(ひうちばり)を架け堅牢な構造としています。用材は栂(つが)を主とし檜と松を混用しています。
昭和23(1948)年の天守解体修理の際*2に、天守最上層の南東隅の壁面内部より発見された「萬治第三天三月吉祥日・・・」と墨書きされた祈祷札(75.8cm×13.9cm:厚さ6mm)が発見され、是により天守が京極氏によって万治3(1660)年に完成したことが明らかになりました。
丸亀城天守根際に設置されている(上画像)説明板と(天主閣で求めた)丸亀市観光協会発行「いにしえのときを刻む 丸亀城」という冊子との記述の違いについて観光協会に尋ねると、“丸亀市教育委員会”に聞いていただきたいということで教育委員会に尋ねました。
文化財保護担当のA氏より丁寧な回答を頂きましたので、疑問が解けこの頁を編集できました。
*1 説明板に「内部柱は一層二十本、二層十四本、三層二本で・・・」とありましたが、これは壁にある柱を除いた各階の柱本数で、冊子にある本数(上記記述した)だそうです。
*2 丸亀城天守の解体修理工事は、昭和22(1947)年工事着手届を提出し、昭和22年12月から仮設足場が組まれ、昭和23(1948)年7月から解体かはじまり、昭和25(1950)年9月に修理工事が完了したそうです。
∴棟札が発見されたのは壁が解体された昭和23(1948)年になるそうです。
丸亀城天守は、高さ48.33尺(≒15m)、三層三階で、昭和18(1943)年国の重要文化財に指定されました。
全国に12しか残っていない木造天守の内の(やや小ぶりな)一つです。四国には木造天守が4つ残っています。
                  現存天守(12城:天守築造年)
弘前城(重文):青森県弘前市  1810年
松本城(国宝):長野県松本市  1615年
丸岡城(重文):福井県坂井市 (1615年説あり)
犬山城(国宝):愛知県犬山市  1601年
彦根城(国宝):滋賀県彦根市 1606年
姫路城(世界遺産・国宝)兵庫県姫路市  1601年
松江城(重文)島根県松江市  1607年
備中松山城(重文)岡山県高梁市  1681年
丸亀城(重文)香川県丸亀市  1660年
松山城(重文)愛媛県松山市  1852年
宇和島城(重文)愛媛県宇和島市  1666年
高知城(重文)高知県高知市  1747年
(北側から)僅かな角度でしたが、遠くからこの亀山城がみえた時、この城が(わたしには)武士が支配する近世領国の象徴であったのだろうな〜と思いました。丘といえる標高66mと聞く地が築城地として選ばれたのでしょう。
鉄筋コンクリート造で復元された広島城(原爆の惨禍に遭う前は国宝であったと聞く)を、何度か天守に上り広島の街をみているわたしですが、この丸亀城は(讃岐)国石高の違いから、そして(築城当時)支城としての築城でもあったのでしょうが小ぶりなお城(天守閣)だなと、急な階段を上りながら思いました。
しかし、現代においては文化財として貴重なこのお城が後世に遺されていくことを願わずにはおられなかった(わたし)でした。
14.03.17.裕・記編集

13.08.30.撮影
香川県丸亀市一番丁に位置する丸亀城の二の門と一の門(櫓門)、天守閣をみました

13.08.30.撮影

13.08.30.撮影

13.08.30.撮影
石落としが設けられています

13.08.30.撮影

13.08.30.撮影
唐破風上のかわらには京極氏の紋・四つ目結紋がみえました

13.08.30.撮影
現在の天守閣入城口をみました



「香川県丸亀市」編



(広島ぶらり散歩)
丸亀城 (概説)
  大手一の門・二の門、大手枡形
  天守閣
  石垣
丸亀城からみる丸亀市街地
(丸亀城)高浜虚子の句碑
(丸亀城)吉井勇の歌碑


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