ゆみがみねはちまんぐう
弓ヶ峯八幡宮
  島根県邑智郡川本町大字川本に鎮座の「弓ヶ峯八幡宮」です。
祭神: 応神天皇、神功皇后、玉依姫命
由来: 河本・川下両邑之惣社石水山弓ヶ峯八幡三社大神宮縁起の巻の中に依れば、
『時の領主小笠原長親が天福元(1233)年に宇佐八幡宮から勧請し、その宮地に心配(こころくば)りされていた折り洪水で神矢一張が流され、当地に漂着し、峯の松の木に掛ったことで縁浅からぬことと、弓矢八幡の名のように神明この地を弓ヶ峯と号し、里を弓市と名付け、社を建立されました。』
「御傳記」碑  昭和58(1983)年8月吉日 宮司三十六代三浦重紀 総代会会長原田圭介
石見小笠原氏   (資料は、Wikipediaを参照)
1221(承久3)年)承久の乱後阿波守護職となった小笠原長房の子、(四郎)長親が1281(弘安4)年弘安の役の軍功によって、石見国邑智郡村之郷を得て、移り住んだ事に始まる。
長親は地元の有力国人である益田氏当主兼時の息女を室に迎え、弘安の役の後の不安定な石見国周辺の海岸を警護した。
南北朝時代の当主小笠原長胤は武家方に従って活動、川本温湯城を居城とした。
戦国時代に入ると石見銀山の支配を巡って対立する大内氏と尼子氏に挟まれ、当主の小笠原長雄はその間を転々とし、最終的には大内氏の後を継いだ毛利氏に仕えた。
1592(天正20)年に国替えにより出雲国神門郡神西に移封されたことで石見国を去る。
1600(慶長5)年の関ヶ原の戦い後の毛利氏の防長移封の際には一度毛利氏を離れることとなるも後に帰参し、石見小笠原氏は長州藩士として明治を迎えた。
弓ヶ峯八幡宮伝記の小笠原長親が勧請した年代とWikipediaでいう長親が移り住んだという年代に約50年ばかり開きがあります。
この地JR石見川本駅が終着駅となり、JR江津駅までの列車まで1時間半の時間があったので、その間昼食タイムと川本町役場を撮影、弓ヶ峯八幡宮参拝と計画していたのです。
役場に行く前にここ弓ヶ峯八幡宮の鳥居をみましたので、参拝してから役場に行くことにし、石段を上る途中にこの神社の「御傳記」碑をみました。由来は神主の文章ではなく、この頁ではわたしが解釈した文章にしました。
石見小笠原氏のことはわたしは門外漢なのでWikipediaを参照しました。
18.01.12.裕・記編集

17.12.15.撮影
島根県邑智郡川本町大字川本272

17.12.15.撮影

17.12.15.撮影
「御傳記」碑が昭和58(1983)年建立されていました。

17.12.15.撮影

17.12.15.撮影
 社殿

17.12.15.撮影
本殿:(一間社)流造り銅板葺き

17.12.15.撮影

17.12.15.撮影
(神楽が盛んな地であることがうかがえる)神楽殿がありました



「(邑智郡)川本町」編



(広島ぶらり散歩)
弓ヶ峯八幡宮
創天秤鞴記・碑


「島根ぶらり散歩」


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