(北野天満宮)太閤井戸、北野大茶湯之址

  京都市上京区馬喰町の北野天満宮境内の井戸「太閤井戸」を取り上げました。
※また、建立されている「北野大茶湯之址・碑」も取り上げています。
太閤井戸は、豊臣秀吉が1587(天正15)年に催した「北野大茶会(だいさのえ)」ゆかりの井戸です。
北野大茶湯之址は、京都市茶業組合が創立100周年記念として1974(昭和54)年11月に建立したものです。  1879(明治12)年京都府の認可を受け京都市茶業組合創立
北野大茶湯(おおちゃのゆ)は、1587(天正15)年10月1日に北野天満宮境内において当時関白太政大臣・豊臣秀吉(1536-1598)が催した大規模な茶会のことです。
この(1587)年7月九州を平定し、朝廷や民衆に自身の権威を示すため、聚楽第造営と併行して大規模な茶会の開催を計画しました。諸大名・公家、京都・大坂・堺・の茶人などに10月上旬に茶会を開く旨の朱印状を出しました。また、7月28日京都・五条などに触書を出しました。それには『北野の森の松原において10月1日より10日間、大規模な茶会を開き、秀吉が自らの茶道具を数寄執心の者に公開する。 茶湯執心の者は若党、町人、百姓を問わず、釜一つ、釣瓶一つ、呑物一つ、茶道具が無い物は替わりになる物でもいいので持参して参加すること。・・・・』などとありました。
茶会初日である(1587年)10月1日は、北野天満宮の拝殿を3つに区切り、その中央に黄金の茶室を持ち込んでその中に「似たり茄子」などの秀吉自慢の名物を陳列。また麩焼き煎餅、真盛豆等の茶菓子が出されました。御触れの効果から総勢1,000人もの人たちが会場に押し寄せ、野点が行われました。
4つの茶席には、秀吉と千利休(1522-1591)・津田宗及(?-1591)・今井宗久(1520-1593)という当代きっての茶人3名を茶頭として迎え、来会者には身分を問わず公平に籤引きによって各席3−5人ずつ招き入れて名物を用いて茶を供しました。秀吉は午前中は茶頭として茶を振舞い、午後には会場内各所を満足げに視察して1日を過ごしたそうです。
ところが、翌2日には一転して茶会は中止され、その後も再開されぬまま終了となりました
(ちゃのゆ)
茶の湯:
1)客を招き、抹茶をたてて楽しむこと。また、その作法や会合。→茶道
2)茶をたてるために沸かす湯。
(ちゃとう)
茶湯:
仏前や霊前に供える煎茶湯。禅家では忌日などに仏前に供える茶と湯をいう。さとう
北野天満宮を参拝したあと、バス集合までの時間で境内を回って、少し早めにバスの所に戻ってきていた時にみた「太閤井戸」、「北野大茶湯之址」でした。豊臣秀吉関連のTVドラマなどでここ北野天満宮で大茶会が催され事やその際側室たちの席順に苦心したというような場面は記憶に残っていましたが、茶道にも疎いわたしは、Wikipediaで上記のような北野大茶湯の事を知りました。
11.12.31裕・記編集

09.01.08撮影
京都府京都市上京区馬喰町   北野天満宮

09.01.08撮影
太閤井戸

09.01.08撮影

09.01.08撮影
北野大茶湯之址 昭和54(1974)年11月建之



「京都ぶらり散歩」編



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北野天満宮
(境内の)撫で牛
(境内の)和魂漢才碑
(北野天満宮末社)竃社
(境内の)明月舎
太閤井戸、北野大茶湯之址
(境内の)さざれ石


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