津崎村岡局つざきむらおかつぼね・銅像

  京都市右京区嵯峨亀ノ尾町の亀山公園に建立されている「津崎村岡局像」です。
※像の作者は、中牟田三次郎。記念碑としての設計者は阪谷良之進です。
この銅像は、幕末の勤王家・津崎村岡局の銅像で、昭和3(1928)年原型作者・中牟田三次郎、設計者・阪谷良之進の製作で建てられました。村岡局、名は矩子(のりこ)、天明6(1786)年大覚寺宮の家来の津崎左京の娘として嵯峨に生まれました。1798(寛政10)年左大臣・近衛忠煕(ただひろ:1808-1898)の侍女として仕え、後に老女(ろうじょ:武家や公家で、侍女の筆頭の女性)の地位に就き村岡局と名乗りました。
嘉永6(1853)年ペリーの来航とともに幕末の政局は俄に慌ただしくなり、忠煕は尊王攘夷派の公家として頭角を現しました。局は、僧・月照(1813- 1858)や水戸の鵜飼吉左衛門(1798-1859)らと親交を持ち志士相互、志士と公家との連絡にあたり、近衛卿や西郷隆盛らの運動を助け活躍しました。このため安政5(1858)年井伊直弼による安政の大獄が起ると、局も捕えられ江戸で投獄され、永の慎に処せられました。その後、近衛家を辞して北嵯峨の直指庵(じきしあん)に隠居、地元住民の教育に尽力し、明治6(1873)年八十八歳で亡くなりました。
あんせいの
    たいごく

安政の大獄
安政5〜6(1858〜59)年に大老・井伊直弼(彦根藩主:1815-1860)が行った尊攘派への弾圧。
安政の仮条約や、徳川家茂(いえもち:1846-1866)を14代将軍に定めたことに反対する一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ:1837-1913)擁立派の公卿・大名・志士ら百余名を処罰し、吉田松陰(長州藩士:1830-1859)・橋本左内(福井藩士:1834-1859)ら8名を死刑とした。
嵐山にバスツアーで来た2009年、昼食を摂った後嵐山散策の時間があり亀山公園をぶらりした時にみたのが、この「津崎村岡局銅像」でした。
勤王の志士といえば男たちだとばかり思っていましたが、説明板を読んで、勤王の志士ではなく勤王家という云い方があるのかと妙に感心しました。
12.01.08裕・記編集

09.01.08撮影
京都市右京区嵯峨亀ノ尾町  亀山公園

09.01.08撮影

09.01.08撮影



「京都ぶらり散歩」編



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