嵯峨天皇皇女・有智子内親王墓

  京都市右京区嵯峨小倉山緋明神町に建立されている「嵯峨天皇皇女・有智子内親王墓」です。
有智子内親王(うちこないしんのう:807-847)は
平安時代初期の皇族、漢詩人。初代賀茂斎院(さいいん:賀茂神社に奉仕した未婚の内親王)。第52代嵯峨天皇(786-842;在位809-823)の第8皇女 。母は交野女王。
810(弘仁元)年4歳で賀茂斎院に卜定されました。818(弘仁9)年斎院司開設。823(弘仁14)年2月三品に叙され封100戸を賜り、同(弘仁14)年4月嵯峨天皇が退位。831(天長8)年病により退下。833(天長10)年二品に昇叙。
有智子内親王は810(弘仁元)年薬子の変をきっかけに、初代賀茂斎院に定められたそうです。嵯峨天皇の皇子女の中でも豊かな文才に恵まれた皇女で、弘仁14年(823年)嵯峨天皇が斎院へ行幸した際に優れた漢詩をものしたことから、感嘆した天皇は内親王を三品に叙したと云われています。その詩作は『経国集』などに合計10首が遺されており、日本史上数少ない女性漢詩人の一人です。
くすこのへん
薬子の変
810(弘仁元)年平城上皇(第51代天皇:774-824;在位806-809)の寵を得ていた藤原薬子(?-810)が、兄仲成らとともに上皇の重祚(ちょうそ:一度退位した天子が再び位に就くこと)と平城京への遷都を企て、失敗に終わった事件。上皇は出家、薬子は自殺、仲成は殺されたと云われています。
嵐山なども行きましたが、北野天満宮の初詣が主目的のバスツアーでした。
渡月橋をみて、亀山公園から北に向かい常寂光寺の所まで来て、バスの集合時間に間に合うには引き返さなくてはと思い、渡月橋の所に帰る途中、落柿舎にも立寄ろうと行っていた時にみたのがこの「嵯峨天皇皇女・有智子内親王墓」ですぐ隣が落柿舎でした。有智子内親王のことを知らなかったので、この頁を編集するので、NET検索でWikipediaなどを参考にしました。
いままで何度か訪ねた落柿舎でしたが、その隣に位置する有智子内親王墓には気も留めていなかった(無知まるだしのわたしでしたが)広島県旧・大野町の任助親王墓のお墓を訪ねていましたので、ここ有智子内親王墓の前設置の掲示板が同じ形式だったので目がとまったのかもしれません。
12.01.10裕・記編集

09.01.08撮影
京都市右京区嵯峨小倉山緋明神町  (有智子内親王墓と工事中の落柿舎)

09.01.08撮影

09.01.08撮影
(内閣府外局の)宮内庁の注意書きをみました



「京都ぶらり散歩」編



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(常寂光寺の)塵劫記
嵯峨天皇皇女・有智子内親王墓
落柿舎
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藤木康成作:地の音




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