ほうねんざんじほうじ  げんこういん
法然山持宝寺 源光院

  南区京橋町にある浄土宗のお寺「源光院」です。
山号寺号は、法然山持宝寺。浄土宗鎮西派。本尊は阿弥陀如来。
知新集によると、
「開山は縁譽臺屋(縁誉台屋)といい此の僧の臺屋の名をとって往古は臺屋寺と号していましたが、正徳4(1714)年持寶寺と改めたそうです。
起立は慶長元(1596)年とも元和4(1618)年とも書き置かれたといわれていますが、元和7(1621)年9月17日の書付に源光院、ひち山、浄土とみえ、自得院殿(浅野長晟)の御局兵部卿※が臺屋を帰依し紀伊国より呼迎へ此地なる農家を買求め一宇建立し臺屋を開山とし住持させたと記録があります。
しかし、比治山に長性院があり源光房が住持したともあり正徳(1711-1716)のころまでは往古の由緒は両院ともうしないよくわかってはいません。・・・」
とあります。
資料によると、被爆したものとしてお地蔵様、墓石が記載されています。
爆心地から≒1,480m  被爆当時は台屋町といっていました(現在:京橋町※)
兵部卿は浅野長晟(1586-1632:広島浅野藩初代藩主)の御局。*墓石があります(別頁で編集)
(長子が三次浅野藩初代浅野長治で、その子が赤穂浅野藩主浅野内匠頭長矩の正室阿久利姫です)
台屋町(だいやちょう)は、昭和40(1965)4月1日町界町名住居表示変更の際、京橋町に合併し、消滅しました。
2003年当時までは広島新四国88ヶ所霊場第57番霊場でしたが現在(2009年)は返上されています。
広島駅から歩いて≒5分〜10分くらいの処にある源光院に亡きオヤジの御墓があります。本家の御墓もあるので古くからお世話になっているのでしょう。
2000年に撮影していましたので、2001年この頁を編集しました。
2003(平成15)年10月11日オヤジの十七回忌を期に写真を追加、浄土宗の事など追記しました。
2015年8月(お袋の初盆)お寺のお盆の法要・施餓鬼会 (せがきえ) に出席して、施餓鬼幡(せがきばた)のことをいまごろになって知るという信心のなさを恥じています。
2016年になりましたが、掲載画像も見直し、2015年の施餓鬼会の画像も加え再編集しました。
16.04.21.再編集  09.01.30誤字訂正  02.04.27裕・記編集

00.09.24.撮影
広島市南区京橋町4-8 

00.09.24.撮影

03.10.11.撮影

03.10.11.撮影
(2003年当時は第五十七番霊場でした) (道路を挟んで墓苑があります) 

03.10.11.撮影
 御本尊:阿弥陀如来(あみだにょらい)  脇侍:勢至菩薩(せいしぼさつ)、観音菩薩

07.01.20.撮影
(爆心地から1,480mで)被爆した石仏 と (原爆で傷つかれた)お地蔵様

07.01.20.撮影
被爆石仏

08.09.23.撮影
台屋之跡・碑 (昭和41=1966年1月建立)

15.08.02.撮影
施餓鬼幡(せがきばた)〈向かって右から〉
「南無寶勝如来」「南無妙色身如来」「南無甘露王如来」「南無廣博身如来」「南無離怖畏如来」
じょうどしゅう
浄土宗
浄土宗は、法然上人(1133-1212)が浄土三部教や浄土論に基づいて創始した浄土教の一派。
法然上人は、平安末期現在の岡山県{美作(みまさか)の国}に生まれる。  幼少にして父を失い、出家して比叡山にて勉学し、ただひたすらに仏に帰依(きえ)すれば必ず救われる、即ち南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)を口に出して称(とな)えれば必ず仏の救済をうけて平和な毎日を送り、浄土に生まれることができる、という‘他力の教え’をひろめる。  
当時旧仏教の中でこの教えは貴族だけの仏教を大衆のためにということで日本中にひろまる。
法然上人は、どこにいても、なにをしていても阿弥陀仏の本願に頼り、南無阿弥陀仏と念仏を口に称えて仕事をし、その仏の御名(みな)のなかに生活しなさいと教えている。 浄土専念宗。
ちんぜいは
鎮西派
浄土宗の一派。京都の華頂山知恩教院大谷寺(かちょうざん ちおんきょういん おおたにでら)が総本山。
開祖は法然の弟子聖光房(字は弁阿)で、特に鎮西(大宰府を鎮西府といったことから九州)で布教。諸行往生を認める。のち六流に分かれた。鎮西流。
べんちょう
弁長
1162-1238
鎌倉初期の浄土宗の僧。字(あざな)は弁阿、号は聖光房。筑前の生まれ。
浄土宗第二祖。鎮西派の祖。はじめ比叡山で天台教学を学び、のち法然の弟子となる。九州で念仏を広めた。鎮西上人。著「浄土宗要集」「徹選択念仏集」など。
ほうねん
法然
1133-1212
(いみな)は源空。諡(おくりな)は円光大師・明照大師。黒谷上人・吉水(よしみず)上人とも称される。
比叡山で源光・皇円、次いで黒谷別所の叡空に師事。ほか各地で学び、のち京都・東山吉水に住して善導の「観無量寿経疏」や源信の「往生要集」に啓発され、1175念仏往生の教えを唱えた(=浄土宗を開く)。
故に旧仏教の批判を受け1207専修念仏停止により四国・土佐に流罪される。1211(建暦元)年帰洛し翌年没した。著「選択本願念仏集」など。
浄土宗のweb siteによると
本来、施餓鬼会の期日は定められていませんが、お寺の年中行事のひとつとして、お盆の頃におこなわれることが多く、施餓鬼棚に「三界万霊牌」や初盆の戒名を記した位牌を置き、浄水や食物を供え、五如来の「施餓鬼幡」を立てて法要を営むのが習わしです。
施餓鬼会は、新亡の霊や先祖代々の諸霊を供養するとともに、無縁仏や餓鬼に施しをする法要でありますが、さらに日頃の自分自身に巣くう「餓鬼」の心を反省し、自他ともに生かされている身をしっかり受け止め、救われる功徳をお互いに積んでいくことが大切なことであります。
今日ではお盆の前後に行われることが多く、先祖追福のために、また一切の生物の霊を慰め、あわせて自分自身の 福徳延寿 (ふくとくえんじゅ) を願う法要です。・・・
』と紹介があります。
地図は広島市都市整備局 住宅部・京橋会館資料を使用しました



「広島の神社寺院など」編


「被爆した建物・構築物」編



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