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佐伯区区楽々園にいまも残る「(五日市楽々園)街道松」をこの頁で取り上げました。 |
街道松とは、街道の景観に変化をつけるためなどで両側に植えられた松並木です。
戦国時代では脇街道に松並木が一条に延び、江戸時代には五街道をはじめ西国街道でも植えられています。
西国街道では約三間(5m強)ごとに植えられていましたが、現在ではここ佐伯区楽々園では三本の松のみが残っています。 |
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五日市町指定重要文化財 旧山陽道昭和47(1972)年4月30日指定
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江戸時代になって全国的に道路交通体系が整備された。江戸を中心とした東海道などの五街道に順じて重要視されたのは、大阪から長崎に至る山陽道(西国路)であった。
山陽道は、道幅二間半(約4.5m)沿道に並木松、一里(約4km)ごとに一里塚、要所に茶屋を三軒設けている。村伝いの道が三尺(約0.9m)の時代なので、二間半の道幅をもつ山陽道がいかに大動脈の役割を果たしていたかうかがえる。現在(昭和56年当時)並木松はこの地に五本*残っており、次の通りである。 |
昭和56(1981)年11月 五日市町教育委員会 |
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説明板設置の1981年に5本でしたが、2007年訪ねた時は3本となっていました。 |
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佐伯郡五日市町は、1985(昭和60)年3月20日広島市に編入されて消滅しました。 |
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西国街道(さいごくかいどう) |
近世には京都と長崎を結び、江戸へ続く主要街道で、山陽道の名でも呼ばれています。
17世紀(江戸時代)現在の形にできた西国街道は、当時陸上の大動脈として文化、社会の交流に役立っていました。これが基になって、今の国道2号になっています。 |
江戸時代に入り1633(寛永10)年に、幕府巡見使の巡察が行われたのに伴い、広島藩内の道路制度は画期的に整備が進められ道幅二間半(約4.5m)に定められ、宿駅として海田市の発展が始まったのです。
旧山陽道(西国街道)は、大坂と下関を結ぶ主要道として、重要な役割をはたしていました。 |
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2007年旧西国街道だったというここ楽々園を、交流ウォーク・コース下見時、わたしははじめて訪ねました。
説明板を読めば30年ほど前は五本残っていたそうですが現在は三本になっており、この三本とも根回り近くまで舗装され、決して勢いがいい松とはわたしには見えませんでした。 |
2012年にも訪ねていましたので撮影していました。2015年になりましたが、画像を見直し、加えこの頁を再編集しました。 |
15.05.24.再編集 07.03.23裕・記編集 |