上瀬野一貫田宿跡(上瀬野出見世跡)

  安芸区上瀬野一貫田付近に過ってあったという間宿「一貫田宿」を取り上げました。
※間宿という規模まではなかったということで「出見世跡」と紹介している資料もあります。
広島市都心活性化推進課の「西国街道めぐり」に“上瀬野一貫田宿”が掲載され、
『旧上瀬野村一貫田は、中世の世能庄の中心で鎮守社の平山神社の麓に発展しました。
近世には海田市宿と西条四日市宿との中継地の間宿となり、本陣が置かれました。
水力を利用した広島藩の油御用所が置かれ明治に入ると官営の錦糸紡績工場が士族授産の施設として開設されました。西国街道から熊野川に沿って、熊野・矢野・呉方面と交流がもたれました。』
とあったのです。
広島市安芸区市民部の「瀬野川の歴史」によると“出見世跡” とし、
“行程記”に「酒屋孫左衛門の休会所、左右に茶屋多し…」とあり、“芸藩通志”にも「お茶屋…」とあるように茶屋があった。』とあります。
行程記とは、
明和元(1746)年頃、萩藩絵図方の有馬喜惣太が中心となって描いたものといわれます。萩から江戸までの長大な参勤交代路を描く、街道絵図です。
わが家から一貫田へ自転車で行ってみようと思ったのです。
種田山頭火の句碑も建立されているからと・・・広島藩の油御用所附近をくぐるっと回ってみましたが説明板はないようでしたが、熊野跡・呉方面、海田市・広島方面、八本松・西条方面への(大正時代の)道標が残っていました。
2018年江戸時代の間宿・一貫田宿と云われた面影は現在はありませんが、2018年瀬野川に架かる代橋から下って一貫田橋に行く途中久しぶりにここを歩いたのです。
間宿跡(出見世跡)とは直接関わりはありませんが、この地区でも森永ヒ素ミルク事件の被害者が出たことを刻んだ石碑をみましたので(別頁で編集していますが)この頁でも触れました。
19.02.05.更新   06.03.14裕・記編集

06.03.05撮影
広島市安芸区上瀬野2附近  旧西国街道

06.03.05撮影
種田山頭火が泊まったとという上瀬野一貫田に種田山頭火句碑が建立されています

06.03.05撮影
県道174号根際の道標

18.09.28.撮影
県道174号から旧西国街道の方をみました

18.09.28.撮影
「(森永ヒ素ミルク事件被害者・娘の天寿を全うすることを祈念する)祈念・碑」



「通り・街道など」編



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平山神社
上瀬野一貫田宿跡
熊野跡分岐道標
(上瀬野一貫田)種田山頭火句碑
(森永ヒ素ミルク)祈念・碑


「わが町(旧・瀬野川町)附近」編


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