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安芸区中野の矢口神社に建立されている「島氏三世碑」です。 |
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方術治疾錢財済人相承三世徳澤永存如吾安藝島氏可謂近時稀匹矣島氏世居于廣島城外中野村天保中有文良先生者始以醫為家治術精妙性又仁慈人仰其徳至今不衰子良澤先生天資頴明夙師華岡鹿城解屍種痘至郷人疑為異端諜窃害之其治徽毒特有秘方四方請治者項背相望島氏業益大矣孫通信先生誉在東京餘因屡見之為人寛厚克襲箕褒不墜家聲今歳甲寅四月獲病遽歿蓋自文良先生以醫鳴于中国七十餘年于茲可不謂盛乎哉郷邑士民追懐不巳相謀樹石以表其徳來謂余銘余不文辞不可乃序其事遂繋之曰
島氏之業 世有所承 竭力醫治 術足延壽 尽心済民 徳足垂後 勒銘貞a 千秋不朽 |
大正3(1914)年8月 従四位勲三等医学博士呉 秀三撰 従五位勲四等日高秩父書 |
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(広島の)爆心地が島病院であったのですが、当時の院長:島薫(1897-1977)先生は中野村(現・安芸区中野)出身と何かで聞いたことがあったのです。
わが町の矢口神社に島氏の碑が建立されていることは以前訪ねた時に知ったのですが、なかなかわたしの国語力では読破できなかったのです。
この碑で島家の事が少しばかりわかりました、さかのぼること天保年間(1830-1844)島文良先生が医家をはじめたこと、その子・良沢先生は華岡鹿城(はなおかろくじょう:1779-1827)に師事し、孫の通信先生が家業を継いだが大正3(1914)年死亡した。しかし、中国地方に盛名をならしていると。 |
☆華岡鹿城の大坂医学塾・合水堂(ごうすいどう)と碑文の中の天保中には少しばかり年代の差があります |
爆心地となった細工町・島病院院長四代目・薫先生(1897-1977)で、五代目・一秀先生へと受継がれていると聞きます。
(また島氏が中野の久留島氏の別れということもわかってきましたが、まだわたしには詳しくはわかりません。) |
08.08.26更新 07.06.09裕・記編集 |