「被爆者が描いた原爆の絵を街角に返す会」第五号碑広島女学院

  中区上幟町の広島女学院中高校外の南西角に建立されている「被爆者が描いた原爆の絵を街角に返す会の碑・第5号碑」です。
※校外の塀沿いですので誰もが好きな時間にみることができます。
2004(平成16)年8月6日に5号碑として、広島女学院中高校の広電白島線・電車通りと城南通りの交差点に建立されました。
城南通りのセンダンの並木道を撮影するついでに撮影したのが2004年9月でしたが、(ついでという気持ちではと)頁にはしていませんでした。
2005年6月再び訪ね碑を拝見し頁として今回編集しました。
2017年新聞の小さな記事で、ここで取り上げた森本順子さんが9月21日豪シドニー近郊の病院で脳腫瘍のために死去されたことを知りましたので追記しました。
2005年以来横を通ることもありましたが横目で見ながら通り過ぎるだけでしたのでコロナ禍の2021年久しぶりに撮影しましたのでこの頁を更新しました。
22.03.30.更新    05.10.09裕・記編集

04.09.18撮影
広島市中区上幟町11-32 広島女学院中高校南西角

05.06.07撮影
(広島)女学院前交差点

05.06.07撮影
  絵・文は広島女学院高等学校第二回(1950年3月)卒業で、オーストラリア在住の絵本作家・森本順子(1932-2017)さん。
「旧制女学院高女2年生(13歳)の時、雑魚場(ざこば)町へ建物疎開作業に行くはずだったのが、背中を痛めて欠席し、三篠町の自宅は壊れたけど私は助かりました。ところが生徒たち三百数十人が消えてしまい大きなショックでした。なぜ私が生き残ったのか。悲劇を伝えないといけないと思っていました・・・・・私たちが代弁しなければならないのです。私の絵が市内の一等地に半永久的に残り、通りがかった不特定多数の人の目に触れ、一瞬でも原爆について考えてもらうことができれば意義深いことです。・・・」と除幕式の時、語られたそうです。
ある朝
爆音を聞いた
わたしのずじょうの「空」に・・・・・・
「B29だ」と直感した

わたしが立ち上がったとき
物凄い閃光が
熱くわたしの体をつつんだ
わたしの目は眩み
体はすくみ こわばり

わたしは思った
「爆弾がわたしの上に落ちた・・・」
わたしは思った
「死ぬ」と
わたしは深い闇の底に沈んだ

やがて明りがかえって来たとき
幾万の人々の絶叫のこだま
わたしの頭の上に
「空」が見えた

わたし達家族は
着のみ着のまま
迫ってくる火から逃れた
わたしは見た
裂けた腕の皮膚が
指の先から垂さがった人々を

わたしは見た
息絶えた母親の体を
揺さぶって泣く幼な子を
それは
手の施しようもない
それは
絶望の世界だった

廃墟の中に立ち
わたしは さとった
恐怖 残酷の極み
それは
人間が創り出す ということを

森本順子詩画集「空」より抜粋
絵本“わたしのヒロシマ”より

21.12.22.撮影
広島女学院中高校校外南西角

21.12.22.撮影

21.12.22.撮影
ATOMIC BOMB MEMORIAL no.5  AUGUST 6,2004

21.12.22.撮影

21.12.22.撮影

21.12.22.撮影
学校法人 広島女学院: 大学・大学院、中学校・高等学校、ゲーンズ幼稚園



「被爆者が描いた原爆の絵を街角に返す会」碑・全体

1号碑 西応寺
2号碑 広陵学園
3号碑 広島YMCA
4号碑 ルーテル広島教会
5号碑 広島女学院
6号碑 天満小学校
7号碑 福島生協病院
8号碑 歯科医師会館
9号碑 赤十字原爆病院
10号碑 広島共立病院


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          (広島女学院関連頁)
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「被爆者が描いた原爆の絵」第五号碑
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