(新しくなった)池田勇人像

  中区基町の広島城お堀東側(中央公園内にあたります)に建立されている「池田勇人像」です。
*2015年7月に複製の池田勇人像に取り替えられましたので二代目の銅像です。
広島市都市整備局の「池田勇人像の取外し・複製設置について」という資料によれば
『中央公園内の池田勇人元総理大臣の銅像については、1970(昭和45)年12月に広島市に寄付されましたが、建立から44年が経過し、表面の退色など銅像全体が劣化しています。
そうした中で、このたび、池田勇人元総理大臣の遺族から、本(2015)年8月13日の没後50年を機に、当該銅像を取り外し、新たに複製(レプリカ)を設置したい旨の申請があったことから、本(広島)市は当該銅像制作者の著作権管理者の了承を受け、都市公園法に基づく公園施設設置許可を行いました。』とありました。
史先代内閣総理大臣池田勇人君之像修繕の銘
  建立から四十五年の歳月を経て、各所老朽化が進み
  ここに複製の製作に至る。
  森野圓象氏の作 建立時の息吹を取り戻す運びとなる。
      平成二十七年七月 吉日
      (建立時の銅像は溶解処分とし現物は存在しない)
池田勇人君ハ明治三十二年竹原市ニ生ル 京都帝國大学ヲ卒業シテ大蔵省ニ勤ム 性豪毅ニシテ誠実 善ク力ヲ尽シテ 其ノ仕ヲ全ウス 主税局長 大蔵次官ヲ歴任 推サレテ衆議院議員ニ当選シ 直チニ大蔵大臣トシテ混乱セル戦後ノ財政ヲ処理ス 爾来常ニ台閣ニ列シ 昭和三十五年自由民主党総裁トナル而シテ内閣を組織スルコト三度寛容ト忍耐ヲ政治姿勢トシ 所得倍増政策ヲ推進シテ 邦家ノ隆昌ヲ致ス 在職四年有余 恰モ東京オリンピック大成功ノ時遽ニ病厚クシテ大任ヲ辞ス 翌四十年薨去 正二位大勲位ヲ贈ラレル 郷党 ニ 象ヲ建テテ其ノ偉業ヲ讃エ敬仰ノ念ヲ新タニス       昭和四十五年十二月 前尾繁三郎 撰
      池田勇人(いけだはやと:1899-1965)
1899(明治32)年広島県豊田郡吉名村(現・竹原市)生れ。 
(旧制忠海中学校時代1学年下にニッカウヰスキー創業者竹鶴政孝がおり終生の友だった。)
旧制第五高等学校を経て京都帝國大学法学部卒業。
大蔵省主税局長を経て大蔵次官歴任。 
1949(昭和24)年衆議院議員当選、大蔵大臣として戦後財政処理につとめる。
1952(昭和27)年通産大臣になるが「貧乏人は麦飯を食え」の失言で辞職。 
1960(昭和35)年自由民主党総裁となり内閣を組織すること三度。
『寛容と忍耐』を政治姿勢とし所得倍増政策を推進したが在職四年余1964(昭和39)年病気で辞職。 翌1965(昭和40)年死去。 正二位大勲位。
広島県が生んだ総理大臣、所得倍増政策でいまの経済大国日本のもとになる偉大な人物だったと思う反面、通産大臣だった当時の「貧乏人は麦飯を食え」との発言は失言といわれていますが、池田自身の根本にあった思想ではないのかと、わたしは思っています。
2015年4月15日中國新聞をみていると
『池田元首相銅像7月新調へ撤去』という見出しで、『2015年4月14日劣化が進んでいたため、元首相没後50年に合わせ7月上旬新調される。・・・富山の工場で型をおこし新しい像を鋳造する。新調は遺族が申し出て、費用も全額遺族が負担する』
という内容の記事でした。
2015年7月報道で新しく複製された銅像になったことを知りましたが、2016年春になり撮影しました。しかし、その画像をPC操作ミスで失いましたので9月になり再び撮影しこの頁を編集しました。
16.10.12裕・記編集

16.09.15.撮影
 広島市中区基町21 (広島城東) に建立されている(二代目)銅像

16.09.15.撮影

16.09.15.撮影

16.09.15.撮影

16.09.15.撮影
(合同庁舎の建物がみえます)

16.09.15.撮影

16.09.15.撮影

16.09.15.撮影
(RCC中国放送の鉄塔がみえています)
敬称は略しました



           
    
「広島ゆかりの人たち」編


野外彫刻など」編



広島ぶらり散歩へ
(広島市建立)池田勇人銅像
(新調された)池田勇人像
  (池田邸にあった)朝鮮燈籠
(竹原市建立)池田勇人銅像
(竹原市吉名建立)池田勇人胸像


「広島城附近」編


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