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廿日市市宮島町の厳島神社境内に建立されている「康頼燈籠」です。 |
「平康頼は平家にとらわれて鬼界ヶ島にながされました。日々故郷の年老いた母恋しさに歌を詠んで過ごしていましたが、その和歌を千本の卒塔婆に書いて海に流しました。
その一本がここの石に流れ着き、おりからゆかりの者がこれを持って都の母のもとへ届けたそうです。
のち、許された康頼はお礼に燈籠を寄進した」と平家物語に出てくるそうです。 |
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「卒堵婆石」その右の岸上古色蒼然たる石灯篭があります。康頼赦免の後、奉納と伝えるこの燈籠は、八角の火袋に六地蔵尊を刻み棹石に昇龍、降龍を刻んだものですが、石質が脆く風化が激しい上に、神仏分離の時火袋の像も叩き潰し、棹石は久しく地中にあったが、厳島神社では最も古い石燈籠です。 |
資料は、厳島神社社務所発行「伊都岐嶋」他を参考にしました。 |
平康頼(たいらのやすより:生没年不詳) |
平安時代後期の貴族。検非違使となり、平判官と称した。
1177(安元3)年、藤原成親(公卿:1138-1177)、西光(廷臣:?-1177)、俊寛(真言宗僧:1143-1179)らの平家打倒の密議に参加。その酒席で瓶子が倒れるのを「平氏が倒れた」と喜んでいた。密告でこのことが漏れて康頼も捕縛される。俊寛、藤原成経と共に薩摩国・鬼界ヶ島へ流された。(鹿ケ谷の陰謀:ししがたにのいんぼう)。
1178(冶承2)年に赦免船が来て成経とともに赦免され京へ戻る。帰京後は仏教説話集『宝物集』を記し、1186(文治2)年源頼朝の推薦により阿波麻殖保司の職に就く。 |
(へいし)
瓶子: |
酒を入れて、つぐのに用いる器。口の細い胴のふくらんだ細長い瓶。
徳利(とくり)。へいじ。 |
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卒塔婆(漂着)石の頁を編集した時、この石灯篭も一緒にその頁に掲載したのですが、厳島神社社務所発行「伊都岐嶋」を読んでいると康頼燈籠のことが解説してありましたので、独立した頁に2007年編集しました。
2015ン円撮影していた画像を加えこの頁を更新しました。 |
23.01.23.更新 07.12.19裕・記編集 |