ひじやま かいづか
比治山貝塚

  南区比治山公園で発掘された「比治山貝塚」跡です。
※縄文時代比治山は広島湾に浮かぶ島の一つだったので貝塚があったのです。
※現在は、貝塚の名残はありません。県・市教育委員会の説明板で貝塚があったことがわかるだけです。
比治山貝塚 広島市南区比治山本町    指定:昭和25(1950)年3月22日
この貝塚は、縄文時代後期〜晩期(約2500年前)に人々が生活した跡で、貝層からは土器の外に鹿の骨や歯、石鏃※、石錘※、石刃(せきじん)などの石器が出土し、当時の生活の様子がしのばれる。 
昭和59(1984)年11月 広島県教育委員会 広島市教育委員会
広島県教育委員会の資料に
比治山の南麓に位置する縄文時代(約12,000-2,300年前)の貝塚です。当時は太田川の三角州が発達しておらず、貝塚は広島湾奥の島*の汀線(ていせん≒なぎさの線)付近にあったと思われます。戦時中軍の工事によりその主要部分が破壊されましたが、昭和23・24(1948・1949)年の調査では、地表下30pに厚さ約1.5mの貝塚が確認されました。貝層は、上・下の2層に分かれており、上層から縄文時代晩期前半(約2,500年前)の灰褐色磨研土器、下層から縄文や同心円状の磨消縄文をめぐらす縄文時代後期後半(約3,000年前)の土器などが出土しました。石器としては、石鏃(せきぞく)、石匙(せきひ)、漁網に使用される石錐(せきすい)、自然遺物としては、シカの骨、タイの骨、ハマグリ、カキ、アサリ、シオフキなどの貝類が出土し、狩猟や漁撈を中心とした生活が明らかになりました。』と設置の説明板よりも詳しく解説がありました。
広島が五箇庄といわれていた寒村の頃(江戸時代以前)には、現在の太田川デルタはほぼ海中で、現在丘の部分がデルタに点在していた島々だったのです。
現在の中区白島が箱島(はこしま)、中区江波の江波山及び江波皿山は江波島(えばじま)、南区黄金山が仁保島(にほじま)、そして比治山は日地島(肘山・ひじやま)と呼ばれていました。
比治山の貝塚の時代はそれよりずっと前ですが、比治山は広島湾内の島でした。
2004年7月交流ウォークの時この貝塚の事を聞いていたのですが、説明板だけが設置されているとの事で、2006年12月の交流ウォークの時まで延び延びになっていました、片岡会長に場所を教えていただき昼休みの時に訪ねてみました。説明板だけで貝塚当時のこと、発掘当時のことなどを偲ぶことは全くできませんでしたが、比治山が昔は島だったことなどを考えながらぶらりしてみるのもいいのではと(わたしは)思うのですが。
11.10.11更新     07.01.13裕・記編集

06.12.16撮影
広島市南区比治山公園6  (比治山本町8比治山下公園よりみる)

06.12.16撮影

06.12.16撮影
貝塚説明板附近を上のほうから見る (下の方)比治山下公園と説明板(右側木の根際)
設置の説明板 説明板の発掘中写真を使用しました
比治山公園南側道路を挟んで比治山下公園上附近が貝塚です。(赤字印)
今の国道2号線辺りは海だったのだろうと思います。
かいづか
貝塚
古代人が食べた貝の殻などが堆積したもの。
日本では縄文時代から弥生時代中期までのものが見られる。土器・石器・人骨・獣骨などがまじって発掘される。ヨーロッパでは中石器時代以後。
じょうもんじだい
縄文時代
日本の考古学上の時代区分。縄文土器を製作・使用した時代。
旧石器時代の後、弥生時代の始まる紀元前三世紀頃まで続く。土器の型式の発達に基づき、草創・早・前・中・後・晩の六期に区分する。
やよいじだい
弥生時代
日本の考古学上の時代区分。弥生土器を製作・使用した時代。
縄文時代に続き、紀元前五世紀頃から、紀元後三世紀頃までの約800年間。大陸・朝鮮の文化の影響で稲作、それに伴う農耕用石器、金属器などがもたらされた。
せきぞく
石鏃
矢じりとして用いられた石器。日本では縄文・弥生時代に見られる。矢の根石。
せきすい
石錘
魚網などに付けて、錘(おもり)として用いたと推定される石器。



「古墳遺跡遺構など」編



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