(原爆死没者慰霊碑前)カウラ市議会の献花

  中区中島町の平和記念公園に建立されている原爆死没者慰霊碑に献花されていた花輪で、豪州カウラ(日本人捕虜)収容所で起きた事件を知ったので、この頁を編集しました。
今(2014)年4月17日平和記念公園に立寄った時、原爆死没者慰霊碑の前に「カウラ市議会」の献花がありました。珍しいことだなと思って撮影しました、カウラ市?米国の都市かな?帰宅後NET検索でわかるだろうと思ったのです。
中國新聞(4月18日社会面16版)に「元捕虜ら広島で祈り カウラ事件70年豪で8月式典」という記事がありました。
第二次世界大戦中オーストラリアのカウラ収容所で日本人捕虜が集団脱走を図った「カウラ事件」で、元捕虜の村上輝夫さん(93:鳥取市)たちやカウラ市長のビル・ウエスト市長たち6人が4月17日平和記念公園を訪れた。8月1日〜5日にカウラ市である「カウラ捕虜脱走事件70周年記念式典」への参加を呼び掛けるために4月11日に来日していた。・・・(中略)・・・平和記念資料館も見学した市長は「広島の悲劇をあらためて知り、胸に迫った」カウラ事件も次世代に伝えていきたい」と話した。』とありました。
カウラ事件               Wikipediaによると
カウラ第12戦争捕虜収容所は、豪:ニューサウスウェールズ州州都シドニーから西250kmに位置する町・カウラの中心部から北東へ3.2kmの郊外地域に位置していました。第12捕虜収容所は、1941年6月に開所。その後、日本人、イタリア人、台湾人、朝鮮人などを収容し、第二次世界大戦終了後も引続き捕虜が収容されていましたが、1947年最後の捕虜が出所すると、カウラ捕虜収容所も閉鎖されました。
1944年8月5日午前2時過ぎから団長・豊島一(海軍三等飛行兵曹:1920-1944)の突撃ラッパを合図に、日本兵1,104名が集団脱走を決行。
脱走時、携帯する事の出来た武器といったものは身近にあるフォーク・ナイフなどの金属製品、野球バットといったものに過ぎず、機関銃が配備されたオーストラリア警備兵に対抗できる状態では無かった。
死者数は235名(オーストラリア人4名、日本人231名)と多数の死傷者を出した。捕虜収容所の敷地外へ脱出する日本兵もいたが、最終的には生存者は全員捕縛された。負傷者数は日本人108名。
今(2014)年も4月は修学旅行の季節になったのでしょう通称・原爆資料館南の広場には多くの観光バスが止まっていました。
先月とは比べものにならないほどの人たちがここ平和記念公園を訪れていました。原爆死没者慰霊碑の前に「カウラ市議会」の献花がありました。帰宅後NET検索で豪州の都市で捕虜収容所があった処で、日本人捕虜の脱走事件が70年前あった事を知りました。次の日中國新聞に記事がありましたのでこの頁を編集しました。
 14.05.18.裕・記編集

14.04.17.撮影
広島市中区中島町平和記念公園、原爆死没者慰霊碑の前

14.04.17.撮影
この日(14年4月17日)は、原爆死没者慰霊碑の前に「カウラ市議会」の献花がありました



「平和記念公園項目一覧」編


広島ぶらり散歩へ
原爆死没者慰霊碑



inserted by FC2 system