げんばくのこのぞう
原爆の子の像
  中区中島町の平和記念公園に建立されている「原爆の子の像」です。
※2002(平成14)年4月折鶴を雨から守るブース工事が竣工しました。
※2003(平成15)年7月27日建立当時の姿に戻すと(複製を制作)鐘と折鶴像が取付けられ除幕式がありました。
この「原爆の子の像」は、1945(昭和20)年8月6日、2歳の時被爆して、10年後(小学6年生の時)に白血病を発病して亡くなった佐々木禎子ささき さだこ(1943-1955)さんの死に衝撃を受けた同級生たちが、「原爆で亡くなったすべての子どもたちのために慰霊碑をつくろう」と全国へ呼びかけ、全国3,000校をこえる学校が協力し、海外からの支援もあり、完成しました。
建立 1958(昭和33)年5月5日(=こどもの日)
建立者 広島平和をきずく児童・生徒の会
像の制作 菊地一雄(当時・東京芸術大学教授)
台の部分作: 池辺陽(いけべきよし:当時東京大学教授)
形状 三脚のドーム型の台座の頂上に金色の折り鶴を捧げ持つ少女のブロンズ像が立ち、左右には明るい未来と希望を象徴する少年少女の像があります。高さ9m。
石碑碑文





































石碑(裏面)碑文































































































*1 資料によっては、英国をはじめ世界9ヶ国からの支援とあります。
わたしはその資料を参考にこの頁を編集していました。この頁を編集して9年ほど経った今(2010年)になりましたが、「9ヶ国とは何処の国を指すのか」6月17日平和記念資料館東館B1資料室の学芸員の方に直接伺いました。『
「広島平和を築く児童・生徒の会」の建立募金の名簿の中には、イギリス人の個人名が4、5名あるそうですが、それ以外の外国人の名前は見当たらないそうです。広島市が発行している本の中では、「海外からの支援」とは云っているそうですが、何の資料もないので、英国以外の9ヶ国という表現はしていないそうです。』という事をお聞きしましたので、わたしのこの頁を訂正しました。
また、原爆の子の像の像の制作が菊池一雄さんで、台の部分が池辺陽さんということも確認しましたので追記しました。
*2 広島平和記念資料館WEB SITEの平和記念公園・周辺ガイドは、被爆体験証言者交流の集い発行「慰霊碑解説のしおり」を資料としてるそうです。
そのしおりには『原爆の子の像は、イギリスをはじめ世界9ヶ国からの支援により、像を完成しました。』とありますが、広島市としては海外からの支援もありとしていると(*1)記述し、9ヶ国とは云ってはいませんと、平和記念資料館東館B1資料室の学芸員の方に伺いました。
そういうことであれば、被爆体験証言者交流の集い発行「慰霊碑解説のしおり」でいう9ヶ国とはと(わたしは)思いました。
そこで、交流ウォーク会員で被爆者でもある米倉さんに伺うと「慰霊碑解説のしおり:原爆の子の像」の特記3として「世界9ヶ国からの募金」として『日本にあるエスペラント協会を通じて(募金が)世界に呼び掛けられました。(その結果)イギリス、アメリカ、フランス、中国、ハンガリー、東ドイツ、ブルガリア、ユーゴスラビア、(当時の)チェコスロバキアの9ヶ国から募金があった』とあることを教えていただきました。
日本エスペラント協会: 1926(大正15)年7月2日設立で、エスペラントの普及活動を目的とする協会で、現在は一般財団法人だそうです。
先日(2015年1月7日)NHKラジオ深夜便に日本エエスペラント協会前副理事長・堀泰雄氏が出演された番組を(たまたま)聞きました。世界共通語としての英語には及ばなくともその活動がいまも繋がっている事を(いまはもう衰えているものとばかりと思っていたわたしが間違っていたことを)知りました。
(Esperanto)
エスペラント:
1887(明治20)年当時ロシア領だったポーランドのユダヤ人眼科医ザメンホフ(1859-1917) が提案した言語で、ヨーロッパ諸語の語彙を取り入れながら、文法を整理したものだそうです。
エスペラントの目的は、民族の言語や文化その歴史的遺産として尊重し、大切にして、それぞれの言語や文化の橋渡しの役目を果たすことを目的としているそうです。
Wikipediaによると、エスペラントを話す者は「エスペランティスト」と呼ばれ、世界中に100万人程度存在すると推定されていると云っていますと云っています。
15.06.28.再編集  10.06.18訂正    01.09.08裕・編集

01.09.01. 撮影
広島市中区中島町1番  平和記念公園

01.09.01. 撮影

01.10.05. 撮影
(折鶴雨よけがなかったころ) 向側:現在レストハウス(被爆時は廣島縣燃料配給統制組合)

02.06.26.撮影
全国からの折り鶴が雨に当らないようにと雨よけ屋根の工事が2002年4月竣工しています

03.01.05.撮影
行った時は既に広場は除雪されていました

03.07.28撮影
鐘と折り鶴が取り付けられた原爆の子の像前で説明を聞く観光客

03.07.28撮影

09.09.14撮影
2003(平成15)年7月27日建立当時の姿に戻すと(市が複製を制作)鐘と折鶴像が取付けられ除幕式があったそうです。
鐘は青銅製で、高さ56cmの銅鐸型。湯川秀樹博士の「千羽鶴」「地に空に平和」の文字が刻まれています。
折り鶴は高さ35cm、幅65cm、重さ5kgの真鍮製。

04.02.22撮影
建立当時のものは何処にあるかと思っていましたが、何回も訪れている資料館(東館)1階ロビーのケースの中に
2003(平成15)年7月原爆の子の像に鐘と折鶴像の複製を取り付けたニュースを聞いて撮影に行きこの頁に追記していたのです。そして、いま資料館・東館に展示されている鐘と折鶴像は創建当時の鐘と折鶴像とばかり(わたしは)思っていたのですが、2009年になって交流ウォーク片岡会長に、2代目であると聞いたのです。『初代は盗まれて、(当時)まだご存命であった菊池一雄先生(1908-1985)が再び鐘と折鶴像を制作された』ということでした。          2009.10.06追記

04.12.03撮影



04.12.03撮影
これらの像の制作者は菊池一雄先生

07.04.08撮影
原爆の子の像を裏側(北西側)からみました

10..05.17撮影
原爆の子の像 と (元安川を越えて)原爆ドームがみえます)

15..06.26.撮影
手前の道路は旧西国街道だった道路なのですよ)



「平和記念公園」編



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