被爆遺構展示館(資料編)

  この頁は、中区中島町の平和記念公園に建てられた被爆遺構展示館の資料編として編集しました。
1)積層の記憶〜この地が語る歴史〜
2)被爆前の旧中島地区
3)天神町筋の町並み
4)原子爆弾による被害
5)モニタリング機器の設置
以上五つの項目の資料編として取り上げました。

22.04.20.撮影

22.04.20.撮影

22.04.20.撮影

22.04.20.撮影

22.04.20.撮影
(パンフレット)
積層の記憶
(展示パネル)
被爆前旧中島地区
(展示パネル)
天神町筋街並み
(展示パネル)
原子爆弾による被害
(保存のため)
モニタリング機器の設置
23.09.12.更新
広島市は、(旧中島地区)被爆遺構館を次のようにいっています。
『被爆遺構展示館は、被爆の実相を直接見て肌で感じていただけるよう、原子爆弾による被害の痕跡が残る住居跡やアスファルト舗装された道路跡などを露出展示しています。
被爆当時の町並みの遺構を通じ、平和記念公園を訪れる人々に、「この地」にはかつて多くの人が暮らす町があったこと、そして「この地」に暮らしていた人々の日常がたった一発の原子爆弾により一瞬にして失われてしまったこと、そして被爆後の先人たちのたゆまぬ努力により「この地」が平和の象徴としての公園として整備され、平和で美しい町として復興を遂げたことをご覧いただけます。』と。
広島市は、この施設内で“この地に暮らしていた人々の日常”を展示パネルなどで見学者に知らせようとしていますが、あれもこれもと紹介できるスペースがないもどかしさがあるのではと(わたしは)見学して思ったのです。
平和記念公園内のは、色々な説明板がそこここに設置されています。
それらを一部の展示パネルに紐づけしてみようと思ったのがこの頁の編集動機だったのです。
この小さな被爆遺構展示館から原爆被害の実相を感じ取ると云うことは相当に困難な事ではないかと(わたしは)思うのです。
しかし、この被爆遺構展示館から平和記念資料館(有料)や国立祈念館(無料)の見学に繋がり、平和記念資料館売店で(@1,500円で)売っている総合図録-ヒロシマをつなぐ-などなどで原爆惨禍の実相を学んでいく切っ掛けになる「被爆遺構展示館」になって行ってくれればと思ってこの頁も編集しました。
屋外屋根設置の「日射計」がよくわからない画像で編集と屋外地面に設置の「水位計の計測蓋」を撮影していなかったので7月、9月になりましたが撮影していました。2023年になりましたが画像を加えこの頁を更新しました。
23.09.12.更新  22.04.25.裕・記編集
積層の記憶〜この地が語る歴史〜
  入館時頂いたパンフレットです。
表面:積層の成り立ち、裏面:平面図は、被爆遺構展示館の頁に掲載しています。

スキャンしました
〔表面〕

入館時頂いたパンフレットの一部スキャン
〔裏面〕 展示被爆遺構は、3.2m×3.2m です。
被爆前の旧中島地区
写真左下に写る橋は本川橋です。家々がびっしりと建ち並んでいたことがわかります。
現在の本川橋は、(被爆した橋脚を利用して)上部工は架け替えられています。
旧中島地区は、現在の平和記念公園と概ね同じ範囲でしたので、展示のパネルを撮影しました。

22.04.20.展示パネル撮影
〔展示パネルを撮影しました。野口巖さん提供の写真です〕
旧中島地区地図 〔平和記念資料館啓発課発行:“平和記念公園めぐり”より〕
現在の平和記念公園になっている場所は、被爆前は中島地区と呼ばれ、幕末から明治・大正にかけて広島市の中心的繁華街として賑わった歴史ある街でした。
中島地区の町々がわからなくては、この被爆遺構展示されている天神町筋の位置も想像できないのではと思ったので、地図を掲載しました。
平和記念公園内には各種の説明板が設置されています。
それらについて、わたしが編集した中島地区関連の頁を下記に紹介します。
それぞれの町についておおまかなことがわかるのではと思いますので、覗いていただければ幸いです。
「平和記念公園」編
  猿楽町通り周辺・原爆被災説明板 天神町・説明板
  中島地区・原爆被災説明板 元柳町・説明板
  中島本町・説明板 材木町・説明板
  中島勧商場跡・説明碑
天神町筋の町並み
天神町筋の両側には家々が並んでいました。
右から2件目は米田京染店の斜め向かいにあった履物の沖田商店。店先でチンドン屋による足袋の宣伝が行われています。
1941(昭和16)年ころ 三田茂さん提供
*紹介の写真は、天神町筋の北側です。

22.04.20.展示パネル撮影
〔展示パネルを撮影しました。三田茂さん提供の写真です〕
 
沖田商店に印 展示の被爆遺構は天神町の中央付近 

20.08.06.撮影
2020年現地見学会時の地図(黄色い丸印内発掘調査した地点)
原子爆弾による被害
ここ被爆遺構展示館に展示されているのは、地面から60cm〜90cm程度掘り下げた処に残っていた被爆当時の民家や道路(天神町筋)の跡です。
2019(令和元)の発掘調査で見つかった遺構の一部であり、家屋の土壁などが(原爆の)高熱で焼けて厚く固く堆積したもの(焼土層)や、焼けて炭と化したタタミ、板材などが出土しました。
被爆前の旧中島地区には、多くの家や商店、旅館などが建ち並び人々の日常の営みがや賑わいがあり、長年培われてきた文化がありました。
1945(昭和20)年8月6日爆心地から約300mという至近距離にあったため、原子爆弾の爆風や熱線により、一瞬にして家屋は軒並み圧し潰され焼き尽くされるとともに、多くの命が失われました。
 ※ (上記で紹介した広島市が設置した)天神町・説明板によると
『・・・ 当時、天神町に居住していたことが確認されているのは約310人で、昭和20年年末までに251人が亡くなったことがわかっています。』とあります。
このパネルでは、天神町の原爆被害の一部について述べています(が)広島市全体の被害の概要についてわたしが資料で調べたものを頁にしていますので、よければ覗いてください。
広島市は、約14万人(誤差±1万人)の方々が死亡したとしています。
  (裕編集の)原爆被害(広島)

22.04.20.展示パネル撮影
〔展示パネルを撮影しました〕
モニタリング機器の設置
この被爆遺構展示館では、被爆遺構を露出した状態で展示しています。
遺構の劣化を防ぐため、館内外の温湿度や土壌水分量などの環境を観測しています。
また、被爆遺構の保存環境を維持するため、室内の湿度が高くなるように設定されています。
遺跡保存の専門家ではない建築屋の端くれだったわたしでも、
自然のままで展示する事では、劣化が激しいだろうと思う“炭化したタタミや板材”には適切な保存環境を与え続けることが必要だと思いますが、炭化したタタミや板材は、複製品(レプリカ)展示しているのですから
この規模の展示で(ランニングコストがかかり続ける)これほどのモニタリング機器の設置が必要なのかと疑問を持ったのです。
今後の(例えばサッカースタジアム建設地で発掘された被爆した陸軍の遺構などの)大規模な被爆遺構展示につなげるデーターを得るためなのだとの答えが用意されているのであれば、わたしの浅はかな考えと云わざるを得ませんが、いまのところそのような被爆遺構の展示が計画されているという報道には接していません(ので)。

22.04.20.展示パネル撮影
〔展示パネルを撮影しました〕

22.04.20.撮影

22.04.20.撮影
 
(被爆遺構展示の処)温湿度センサー  (展示館屋根の処)温湿度センサー、日射計

22.07.15.撮影

22.0715.撮影
 
 「温湿度センサー」 と 「日射計」
遺構面の環境変化を知るため、遺構面近くの温度と湿度を計測しています。
日射計などの気象観測機器を設置して、現在の日射、地下水位などを計測しています。

22.04.20.撮影

22.04.20.撮影
 
向側:水ポテンシャル地温センサー
手前:土壌水分センサー
 奥:土壌水分センサー
手前:水ポテンシャル地温センサー
地中の湿潤の度合いを知るため、土の中に含まれる水分(含水率)を計測しています。  

22.09.15.撮影
展示館西側の屋外

22.09.29.撮影
(屋外設置)水位計測用蓋



平和記念公園」編



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